〜『鬼滅の刃』全巻を読み終わって色々と思うことの呼吸〜弍の型『取り替え可能なモブであることの自覚』
〜以下、本論文(笑)の注意事項です。〜
※ド派手にネタバレします!
※作家や作品のネット情報とかソースは一切なく(そーゆーの読まない)、私の30年以上のマンガ読み人生から生まれた勝手な分析や予想です!
※一切ディスってないです!
愛してます!
※壱の型から終の型まで、順にお読みいただけるとありがたいです。
それではどうぞ!!
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肉体に対する猜疑心は自分の存在の代替可能性を認めている。いつも自分が唯一無二の特別な存在ではなく、交換可能な『誰か』として存在している自覚がある。
この『交換可能な自分』はいつも『今ここにいるのは俺ではなくアイツだったかもしれない』という悪夢として、登場人物たちを何度も何度も、そりゃあもう執拗に徹底的に苦しめ続け、さまざまな人物達の中で毎回訪れるテーマである。
厳勝と縁壱
無一郎と有一郎
錆兎と冨岡さん
さらに村田と炭治郎という、いわゆるモブ(その他大勢)と主人公の間にも『ここにいるのは俺じゃなくアイツだったかも』のテーマを持ってくるという念の入れようだ。
肉体や才能は生きるための何の保証にもならず、ひとの唯一無二の働きは思いのバトンを繋ぐことのみ。この思想は最強剣士の縁壱の
『私たちはそれ程たいそうなものではない。長い長い人の歴史のほんの一欠片』『何の心配もいらぬ 私たちはいつでも安心して人生の幕を引けば良い』
という言葉に凝縮されている。
この“俺がアイツでアイツが俺で現象"は存在の根源を常に揺さぶり続け罪悪感を与え、自身の存在許可を承認し続けないものでありながら、ある種の達観と解放を与えている。
俺がアイツでアイツが俺ならば、俺が成功せずアイツが成功してもそれでオッケーじゃん!!という、ワンフォーオール、オールフォーワンの精神(これは一歩間違えると全体思想的な危険性も孕んでおり、作品の中で特攻隊的性質として時折現れている)。
交換可能な存在として生の根源を揺さぶり続けられるのは、まさに現代を生きる人間の苦しみに直結しているが、この作品では『交換可能でけっこう!』というところまで描くこと、さらに『バトンを繋ぐという役割の前にはモブも主人公も同列!』という回答を現代に与えている。
そして、この『自身は代替可能な存在』という意識がこの作品の最終巻に最も強烈に表現されており、その描き方が、
奇しくも"2020年東京オリンピックを予言していた"と言われ続ける、日本漫画史に燦然と輝く金字塔、あのもうひとつの歴史的大傑作を私に思い出させるのである。。
〜つづく。。
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