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〜『鬼滅の刃』全巻を読んで色々と思うことの呼吸〜陸の型『証明しましょう、そうしましょう!』

〜以下、本論文(笑)の注意事項です。〜

※ド派手にネタバレします!
※作家や作品のネット情報とかソースは一切なく(そーゆーの読まない)、私の30年以上のマンガ読み人生から生まれた勝手な分析や予想です!
※一切ディスってないです!
愛してます!

※ここから最終巻について、さらにまだまだベラベラ語ります!!

※壱の型から終の型まで、順にお読みいただけるとありがたいです。

それではどうぞ!!

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2020年にはなぜ『鬼滅の刃』のようなメッセージが必要だったのか。
1990年の『AKIRA』とは違うメッセージが必要だったことに、現代を映す鏡がある(確かあのジュリアナ東京が潰れたのが1994年だったかと記憶している。1990年はまだバブルの好景気を感じるエネルギー溢れる時代だった)。

生きていく日常があまりに脆い、逆にあまりに当たり前で掴みどころがない、この両方がこれまでにないほど顕在化しているのが現代だ。
ともすれば肉体を自覚することすら許されないほどのデジタル化の波、手を触れることもなく蛇口から水が出て、仕事の対価は電子化されコミュニケーションは全てスマホ一台で事足りるほどの身体への侵略。
そのくせ、予期せぬ大災害や、ひとが経済に都合の良い"能力"によってその価値を測られ、取り替え可能な部品のように扱われることによりあっという間に命が奪われていく。
奇しくも新型コロナウイルスによる世界的混乱状況に見舞われた歴史的な2020年、まさに生かされながら殺され続ける時代を象徴する年となった。『肉体に対する猜疑心』、『代替可能な自分への揺らぎ』はもはや生の前提となっている。

そんな現実に生まれた頃からどっぷりと漬かり続けている若者たちは、『明日へ向かってバイクを走らせろ!!』と言われても困るのである。
まず自らが"生きる"ことを許されている、ということ、生きるということこそが"思い"として繋げられてきたあなたへの最重要事項なのだということを感じ取る、思いを受け取るセンサー、器が壊れかけている。
その焦燥が作品全体からビシビシと伝わってくる。

先に書いたように、エンディングでは戦いのあとの炭治郎たちの普通の日々を描くことで、何度も繰り返し繰り返し普通に生きることの重要さを伝えている(ヒーローにならなくていい!ていうかそういうのムリ!あの史上最強の縁壱さんですら言ってたじゃん!長い歴史の中においてはそんな大層なものじゃないって!)。

ああ、それなのに!それなのにまだ作者は描こうとしている。
なんと、エンディング後とも言うべきものか、現代に炭治郎たちの子孫が生き残り、これまで出てきたキャラクター達が形を変えて繋がり続けている様子を描くのである。
主人公だけではない。現代では、蜜璃ちゃんと小芭内は食堂屋の夫妻になっていたり、あのモブキャラ代表の村田の子孫も出てきたり、冨岡さんと錆兎達は仲の良い友達として一緒に登校しキャラクター交換をして遊んだりしている(正直、この冨岡さんの姿が最終巻で一番泣けると思うが。。)。

ここまで描くか!?と。
金田のように生きる限界へ挑戦をしなくても、ただ日常を送っているだけでこれだけ全員の願いが叶ったような幸せな未来が続くんだ、と。これが皆の御先祖様たちも望んだ世界なんだよ、だから生きていていいんだよ!と、現代へ追跡して未来を描く事で証明までして見せている。

正直、『いやいや、そこまで描かなくても読者に伝わってますよ!自信持ってくださいよ!』と作者の肩をガクガク掴んで揺さぶりたいが、ここからこの作者はさらに驚くべき行動に出るのである。。

2020年的、まさに現代のヒット作を生み出す人間の荒技がある。。としみじみ感じたラストの真骨頂だ。
それが"手紙"である。

〜つづく。。

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