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〜『鬼滅の刃』全巻を読んで色々と思うことの呼吸〜伍の型『そして繋がれてきたものだけが残った』

〜以下、本論文(笑)の注意事項です。〜

※ド派手にネタバレします!
※作家や作品のネット情報とかソースは一切なく(そーゆーの読まない)、私の30年以上のマンガ読み人生から生まれた勝手な分析や予想です!
※一切ディスってないです!
愛してます!

※ここから最終巻について、まだまだベラベラ語ります!!

※壱の型から終の型まで、順にお読みいただけるとありがたいです。

それではどうぞ!!

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『鬼滅の刃』が現代に届けた別のメッセージとは何か。

『鬼滅の刃』は無惨を倒し永遠のループ問題に立ち返ったあと、『AKIRA』とは、全く違うアプローチでこの問題への解決策を提示した。
思いを繋げながら揺らがない存在になる"新しい方法"を模索するのではなく、繋げ続けていく"思い"そのものに着目したのである。

滅びゆく肉体を介し存在を揺るがし、悩み苦しみながらも繋げ続けられてきたその思いそのものとは一体どんなものか。

エンディングでは、最後の戦いを終えた炭治郎たちは家族と生まれ育った家に帰り、掃除をしたり墓参りをしたりと日常へと戻る準備をしていく。戦いが終わった後、怪我を治したり、『ところであいつらどうなった??』という場面を描くのはよくあることだが、そのあとは、多くの場合仲間たちもそれぞれの道へ進みバラバラになっていく。。というのがよくあるパターンなのだが、『鬼滅』は違う。
戦いを終えた猪之助や善逸も一緒に揃ってその後、どうやってその後の"勝ち取った"人生の残りを過ごしたかを描くのだ。
それは、夏にスイカを食べたり冬に雪だるまを作ったり、皆でお風呂に入ったり。。という、本当に普通の日常の姿である。戦いを終えたあとこそ、彼らの本当の絆が生まれていく様子を描いているのである。

そう、戦いを超えて彼らに繋げ続けられてきた思いとは、このように"ただ生きる"ということ、なのである。
“ただ生きる"こととは何か。
普通の、なんの変哲もない、ただの毎日を楽しむことだ。

もう『AKIRA』の金田のように、新たな方法を生み出し存在意義が揺らがない究極の生命体になることへ立ち向かわなくていい。
『立ち向かうことが生きているものの務めなんだーー!!!おりゃー!!!』と明日に向かってバイクを走らせなくてもいい。
ただ毎日を生きろ、と。

存在意義が揺らがないことなど、もう、忘れてしまえ、と言っている。新しい方法など模索する夢を追いかけ続けるのをやめろ、と言っている。
明日に向かって新しい方法を追いかけ続けているうちに、犠牲にしている今がある。
今ここで思いを繋ぐ存在として生きている肉体が必ず滅びることだけは確かな事実だからだ。

逆に言えば、肉体が滅びること、猜疑心を持たざるを得ない肉体であるからこそ、思いも生まれるのである。そして繋げていく思いがなければ生き続ける意味もまたなくなってしまう。

悩み揺らぎながらも、ただ毎日を生きていくこと。それが最も"正しい"解決法だ、ということが『鬼滅の刃』の現代へのメッセージである。

かように肉体への猜疑心は強固、存在意義への疑いは尽きることはなく、ゆえに“ただ生きること"という繋がれ続けた思いは何よりも強い。

千年の年月をかけても必ず夜明けを迎えるように。

〜しつこくまだもうちょっとだけつづきます。。

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