周囲の理解度が生きやすさを生む
突然ですが、「生きやすさ」って何から生まれるんでしょうか。
先日、”人生の核には人がいる”といった記事を出しましたが、今回はそれに関連して、「生きやすさ」についてふと思ったことがあったので、思いつくままに書いてみたいと思います。
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今日、久々にお買い物を兼ねて道を歩いていると、休職のきっかけとなった人のことを思い出しました。
周囲の人のことをよく見ていて、
わたしのこともよく分かっていた。
一つずつ仕事をしていく継次処理傾向であること
会話がゆっくりで突っ込みどころがあること
誰かのために何かをすることが好きなこと
これはわたしの特性で、周りの人が理解して、「わたしらしさ」として認めてくれていたから、そこまで気に留めたことはなかった。
だけど、この方は、わたしの”扱い方”が分からないと上司の一人に相談しているのを偶然聞いてしまった。
「あ、これって普通じゃないんだ」
聞いた途端、自分のすべてを否定されている気持ちになってしまった。
その後も一緒に仕事をする時の接し方、言葉の数々が、直接何も言っていなくても、気づいたら無数のトゲに刺されているような、そんな不思議な存在の人でした。
他人や自分がどう思おうと、「自分」は変わりません。
「自分」は他でもない「自分」。
でも、周囲の人が自分をどう捉えて、どう接するかで、「自分」の生きやすさは全然違うんじゃないかなと思います。
家族や親友のように、
いくら私がうっかりしても
それが私だからと受け入れて愛してくれる存在と一緒にいれば、とても生きやすい世界になります。
反対に、
同じ私であっても、周囲の人が自分に対して否定的な気持ちを抱いていると、途端に生きにくくなります。
そうなると、「自分」をしっかり持てばいいという意見が出るかもしれませんが、やっぱり人と関わらずに生きていくというのはあり得ないので、多かれ少なかれ影響は受けるものなんじゃないかなと思います。
今は幸い、理解者と、そこまで「私」に踏み込まないある意味無関心な存在に囲まれているので、すごく「生きやすい」と感じています。
ただ、それは一時的なのも事実。
環境は常に変わる。
前職でも前述の人がくるまではよかった。
その人が来てから、がらっと変わってしまった。
それほど、環境(人)によって変わりやすい人は一定数いる。
では、そうした時にどうすればよいか。
その答えは、正直まだわからない。
わからないが、考えたことがある。
例えば、自分の特性を見抜いて、特性としてはわかっているが、理解していない、あるいは認めていないであろう人に出会ったとき。
「認めてほしい」
「あの人は分かってくれない」
「分かり合えない」
そう思うこともあるかもしれません。
そんな時、焦点は「自分」に当たってしまうことが多いです。
というより、人間は自分勝手なものなので、それが普通です。
でもそんな時、ふと考えてみたいことがあります。
果たして自分は相手のことを分かろうとしているのか…と。
誰しも自分を理解してほしい
いい部分もわるい部分も、全て含めてのありのままの自分を認めてほしい
その思いは相手も同じはず。
好きにならなくてもいい
分かった上でやっぱり苦手だと思っていてもいい
「こうゆうところ苦手…」
と思った時、何でこうゆうこと言った(やった)んだろう。
「意外とこうゆうところはいいかも」
と、”こうゆう面もあるし、
ああゆう面もある、○○さん”
その程度で思うだけでいい
そうして、一人の人として「分かろう、知ろう」とすることで、解決するのでしょうか。
やっぱり答えは分からない。
分からないけど、
改めて、ありのままの自分を認めてくれる周囲の存在に感謝したい気持ちになって、自分もありのままを認めたいとふと思った日でした。
本当に思ったことをつらつらと書いてしまいました😅
ここまで読んでくださった方々、本当にありがとうございます😭💛
いろいろ書きましたが、今がハッピーならそれでよし。(笑)
全ての経験が自分の糧になってることを感じられて、これまた幸せです!
冒頭でちらっとお話した、「人生の核には人がいるのかも」という記事はこちらです。
よろしければご覧いただけますと、大変嬉しいです!!!
それでは、また!