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人身事故が起きた朝

心地のよい眠りの朝、連続で鳴り響くスマホの着信に、無意識に腹が立ったように電源を消そうとボタンを探しました。
見つけた時には着信は鳴り終わり、再び眠りにつこうとするとまた、着信が鳴ったのです。
何度も鳴り響く音に根負けしたワタシは、仕方なく電話に出ることにしました。

「もしもし、お母さんです」
「・・・なに?」
「最寄りの駅で人身事故があったみたいなんだけど、電車がかなり遅れるみたいだよ」
そう電話越しに話す母は、少しだけ興奮気味でした。
ワタシの夫は、仕事に行く時には電車で通勤しているため、そのことを心配した母は「ビックニュース」と言わんばかりのテンションで話をしているようでした。
けれどもワタシとしては、まだ寝ている時間だし、こんな朝早くから起こされて、急なテンションで来られたことへの不満の方が大きく、あまり話も聞かずに「とりあえず分かったから」とだけ言って、電話を切ってしまいました。

二度寝をすることも無理そうだったので、不本意ながらベッドから降りて、仕事に向かう彼に「なんか、母ちゃんから電話があってさ。近くの駅で人身事故があったみたいなんだけど、仕事に間に合わないかもしれないよ?って言ってた」
そう伝えると、彼はネットの情報を探しながら電車の遅れを調べていましたが、確実な情報がまだ出ておらず、「とりあえず大丈夫だと思うから、行ってくるよ」そう言い残し、仕事に出掛けて行きました。

この時はまだ、私たちもいつもの朝であり、違うところといえば母からの着信で起こされて、少しだけ不機嫌な朝のスタートを切ったところでしょうか。

とりあえず顔を洗い、歯を磨いて、なんとなく朝の準備を始めていると、再びスマホが鳴ったのです。
ふと画面を見ると今度は母ではなく、彼の名前が映し出されていました。

少しだけ嫌な予感がしたけれど、人身事故によって電車が遅れていることを伝えるための電話だろうと思い、あまり深く考えずに電話に出ることにしました。

「もしもし・・・納言ちゃん。あのさ・・・」そう切り出された口調は、明らかにいつもの様子とは違っていたのです。

「今ね、駅に向かって歩いてたら・・・見ちゃったんだよ。現場検証している警察官の人がちょうどブルーシートをめくる瞬間を・・・。見ちゃいけないのは分かってたんだけど、目が離せなくなっちゃって、体が動かなくなっちゃって・・・、でも急いで目を伏せたんだけど、ほんの少しだけ見ちゃったんだ。白い服を着た人のような塊が線路に横になっているのを・・・」

いつもとは違うトーンで慌てているような、でも妙に落ち着いているような、そんな印象を受けながら、ワタシもあまり彼の言っていることがこの時は理解できず、話し続ける言葉にただただ耳を傾けることしかできませんでした。

「あのさ、申し訳ないんだけど一回迎えに来てもらってもいい?電車がしばらく動かないみたいだから別の駅まで送ってもらえると助かるんだけど・・・」
「うん、分かった」
そう答えると、とりあえず電話を切って朝ごはんの大判焼きをレンジに入れたまま急いで駅へと向かいました。

いつもは静かで穏やかな駅の近くには、何台もパトカーが止まっており、警察官に駅員さん、そして踏切のすぐそばには大きなブルーシートが被されていました。
車が無事に駅に到着した時には、すでに彼が外で待っていて、ドアを開けてすぐに「本当にごめんね・・・。助かったよ」となんとも言えない表情を浮かべながら助手席に乗り込んだのです。

そして大きく深呼吸をした後、まっすぐ前を向いて「どうしてあんな選択をしてしまったんだろう。線路に立った時、どんな気持ちになっていたんだろう・・・。命を絶つほど、苦しくてたまらなかったのかな・・・」そんなことを言っていたような気がします。

車内の中は重く、視界が歪むような、心がざわつくほどの空気が流れていました。

それは、ワタシも過去に同じような選択肢を選ぼうとしたことがあったからなのかもしれません。そして人に迷惑をかけるということよりも、たった一人でも「楽になりたい」と先走りそうになる気持ちも、少なからず分かる部分があったからなのかもしれません。

けれども、それ以上に彼にも、そしてあの状況にも、かける言葉が見つかりませんでした。

もしも、誰かに「助けて」そう叫ぶことができていたら、いつもと変わらない朝が来ていたかもしれません。
飛び込む前に違うやり方で、助けを求める方法で、行動を起こしていれば人生はまた違った形になっていたのかもしれません。

そんなことを考えれば考えるほど、この朝が、いつもと変わらないはずの朝が、とても重く、苦しいものになっていることを感じざるを得ませんでした。

彼を少し遠い駅に送り届け、家に戻る頃には駅はほぼ元通りになっていました。
まるで、今朝のことなんてなかったかのように、いつもと変わらない日常が再び電車と共に動き出していたのです。

それがまた悲しく、そして虚しく思えてしまうのです。

そして結局、人間なんてちっぽけで寂しい生き物なんだって、言われたような気がしてなりませんでした。
一瞬で奪われた命は、数時間後には忘れられてしまう。

それが何より、寂しさや虚しさを物語っているような気がします。

そしてこの文章を書いているワタシもまた、この日の出来事を少しずつ忘れて、そして何事もなかったかのように日々を過ごし、何事もなかったかのようにいつもの駅を、何事もなかったかのように利用するのです。

あの日の出来事がまるでなかったかのように、日常はただひたすらに過ぎていくのだから。

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