茶の湯で体感する「正解がない」世界
「茶道」「茶の湯」と聞くと、敷居が高くてこわいというイメージを持つ方が多い印象である。
「間違ったことをすると怒られそう」というイメージが一般的になっているのだろう。
しかし、私にとって茶の湯は「正解がない」ということを体感させてくれ、「人それぞれの解釈がある」ことを受け入れることのできる存在である。そして、それが私が茶の湯に魅了されている大きな理由である。
私は茶の湯の世界に入り10年ほどになり、表千家という流派で師事する教授のもとへ毎週稽古へ通っている。
私の稽古場には2、30名程度の方が通っており、時間が合えば一緒に稽古をする。年齢は中学生から70歳近くまで、性別も国籍も職業も実に多様である。茶道歴も初心者から何十年になる方までいろいろである。
茶の湯の世界では、みんなが平等である。同じ場に居合わせた方々と同じ時間を共有することが喜びであり、それぞれの背景が異なっていても「今」を共有し時に感想や想いを語る。同じ空間で同じものを見ていたとしても、感じることは人それぞれ。人の意見を聞き、自分にはない発想や考え、共感する部分を見つけ、自分の考えに深みが増す。
他者と同じ時間を共にすることの面白さであり、現代で言う「多様性」は茶の湯の空間で体感できるのではないか。
いろいろな方がいると、茶の湯の世界での得意なことや好きなことも違ってくる。
茶の湯は総合芸術と呼ばれるほど、幅広い分野を包括している。建築、伝統工芸、書道、華道、和菓子、着物など。
私は掛軸にかかれている禅語に触れ、その意味を自分なりに解釈して心を整えることが好きである。和菓子を食べるのが好きだったり、歴史が好きだったり、茶会の裏方でスムーズに適切なタイミングでお客さんにお茶を出すことが好きだったりと様々だ。
茶の湯の世界が覚えることが多すぎて、疲れてしまうことも時にある。そんな時、先生がかけてくれた言葉が印象に残っている。
「茶の湯は死ぬまで学び。全てを知ろうとするのはどんな人でもかなわない。だから自分が好きな分野を詳しくなることからはじめればよい。」
茶の湯の中でも幅広い選択肢があり、どんな人にも違いがあって当然と腑に落ちた瞬間であった。
茶道の稽古というと、「型」があり堅苦しいイメージを持つ方が多いようだが、稽古を重ねるうちに「型」があるからこそ自由であり楽しいと感じるようになった。
たしかに茶道には「型」があり、所作や道具の置き場所、場面や季節に合わせた道具などと決まり事がたくさんある。
「型」は先人たちが長い歴史をかけて改良を重ね、最善をつくりあげてきたのだ。
はじめの頃は訳も分からず、言われた通りの動きをするだけである。それを繰り返し繰り返し行うことで、身体で覚える。
すると、半年後はたまた10年後に、訳も分からずにやっていた所作は、全く無駄のない最も合理的で美しい所作だとはっと気付く時がある。この身体と思考が一体になった感覚を得たときは、「こういうことだったのか」という納得感とともに感動を味わうことができる。
ひとつひとつの所作に合わせて、道具の置き場所を変えながら点前を進める。置く位置は細かく決まっており、はじめは覚えるのに必死だった。年数が経った今、無駄がない動きになる位置であることに気付く。
客として誰かの点前を見る時、同じ所作であるが人それぞれに違いがあると感じる。同じ所作でも、リズム感や道具の扱い方にその人の個性を感じ取る。「型」があるからこそ、個性がわかりやすく活きる。「型」があるからこそ、自由でいられるのだ。
古くから伝わる日本の伝統文化である茶の湯。格式高くてとっつきづらく捉えられがちだが、多様性や個が尊重される現代に必要な価値観を身体で学ぶことができるだろう。
日本人であることが自分のアイデンティティの原点であると考えている私にとっては、茶の湯はその意識を強める機会になり、日本人であることを誇りにできている。
人それぞれ、正解がない時代に、茶の湯が自己を確立する手助けとなり、日本人が日本文化の魅力と日常の美しさに気付く機会になることを望む。
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