【思い出】KOBEの記憶に雪が降る⑥
そして、翌日。
いつものようにCLOSEの看板をOPENにし、やがて、ぽつりぽつりとお客様が入り始めた。
トップシーズンのホテルの夜は、まるで商店街のような賑わいだ。
ロビーは人の流れが絶えず、ショップには高価な商品を欲しがる子どもをなだめるお母さんに、部屋で飲むお酒を物色する手をつないだカップル。レストランのチケットを忘れ、家族の代表として部屋に戻るお父さんや、ナイタースキーから戻ってきた雪まみれのおじいちゃん。フロントには遅い時間のチェックインのお客様が数名並んでいる。
そんな光景を眺めながら、そわそわする。
昨日のお客様は何時ごろ足を運んでくれるのだろうか。そんなことを考えていたら、ほどなくしてすべての席が埋まっていった。
次第に時間を気にする余裕もなくなり、手元も口も慌ただしくなっていく。そういえば今夜の宿泊予約は満室。そりゃあ忙しくなるわけだ。洗い物を溜めないようにしないと。しかし今日はとにかくジンが出るな。トニックウォーターとフレッシュライムの在庫は大丈夫だろうか。今夜は割と長居する方が多いなあ。さて、何時に帰れるだろうか…。
「あっ」
思わず声が漏れた。
気が付いたら、時計は23:00を回っていたのだ。
ラストオーダーまであと15分足らず。
昨日のお客様はまだ来店していない。
ロビーの明かりは徐々に落ちてゆく。
23:00を回っても、7割の席が埋まっている状態だ。
また昨日みたいに、閉店ギリギリで来るのかな?
部屋に戻るお客様で次第に席は空いていき
どんどん洗い物は溜まってゆく。
最後のお客様が店を後にした。
さすがに今夜は疲れたなあ。
ただそれよりも、ぼくは別な理由で肩を落としながら、看板をOPENからCLOSEに戻す。
結局、昨日のお客様は来なかった。
閉店業務を終え、フロントに金庫を預けて帰路につく。
時間はすっかり深夜になっていた。
帰路とは言っても、ホテルから歩いて5分もかからない場所にある社員寮までの雪道だ。
ぼくの身長は約180センチだが、路肩にはその倍の高さはあろうかという雪山が出来ている。吹雪いていた雪もすっかり止み、街頭の電球色は足跡のない雪道を照らしていた。
ぼくは新雪をざくっ、ざくっと踏みしめながら社員寮までの道のりを歩く。この帰り道を、1日を振り返り、ぼんやりと考えながら歩くのが好きで、日課だった。
昨日のお客様、今日も来るって言ってくれたのに。
まあ、来たところで今日は忙しすぎたから、じっくり話もできなかったと思うけれど。
明日はご自宅に帰るのかなあ。じゃあせめて、フロントのスタッフに頼んでメッセージカードでも渡してもらおうかな。いや手紙くらいは書いたほうがいいか。
ん、そういえば…
思わずハッとなって、歩くのをやめた。
肝心なことをしていなかったことに気づいた。
昨夜はいくらでも聞くチャンスはあったろうに。
ぼくは、
そのお客様の名前も、ルームナンバーも聞いていなかったのだ。
そのお客様がどこからやってきて、何名で何泊宿泊されて、いつ帰るのかもわからない。
予約内容さえわかれば、たとえすれ違っても、チェックアウトは必ずフロントで行うわけだから、何かを渡したりお見送りなど「先回り」ができる。
せめて、ぼくは感謝を伝えたかった。
自身の不手際はあったけれど、ぼくが作ったカクテルに涙してくれて、時間を使ってくれたこと。阪神大震災直後の貴重なお話が聞けたこと。そして、サービスについての気付きや学びを与えてくれたことに。
仮に「40代くらいの男性で、関西弁で、家族連れの方がいたら、ぼくを呼んでください」とフロントのスタッフにお願いしたとする。
今は真冬のトップシーズン。西日本からの宿泊客も多いなか、果たしてそんなお客様が何組いるだろうか。
しかも満室の翌日。チェックアウトでごった返すのが目に見えているのに、そんなお願いなんてできるはずがない。
まさか、ご挨拶も見送りさえも叶わないなんて。
吹雪はすっかり止み、雪も止んだ。
頭の中がまとまらないまま、再び社員寮までの雪道を歩き始める。
明日は早番。
帰ったらすぐに寝ないと…。
つづく。