真ん中、それは"ある"ものが"ない"ものに寄り添うこと
「私はどんなことでも中間点を見つけたい、そう思うんだよね。」
私が人と接するときに大切にしている考え方。相手を受け入れるだけじゃない、一歩ずつ丁寧に、歩み寄ること。
私が嫌いな言葉の中に、「妥協」って言うものがある。何事も"上手く"やるのが苦手で、ストレートしか投げられないような性格の私。そんな自分だからこそ、聞くのも好きじゃないくらいに、この言葉をうまく扱えない。
だから人と過ごすとき、人と暮らすとき、人と出会い、話し交わるとき。嫌なところを諦めることよりも、寄り添い一緒に考えてお互いの「中間点を見つける」。そんなことを、ずっと大切にしていた。
友人が家にきたときに、「私はどんなことでも中間点を見つけたい、そう思うんだよね。」そう話した。そしてまた別のひとりが
「中間点っていうのは、真ん中じゃないよね。強い人が、弱い人の方に少し近づいてあげるときもあるよね。」と。
強い人、弱い人という定義は一旦置いておくが、中間点は確かに真ん中ではない。わたしの得意なこと、相手の好きなこと。逆にきらいなことや、出来ないこと、苦手なこと。
誰かと決断して、誰かと前進するときには、妥協でも我慢でもなくて心地よい中間点を見つけることが大切なんだろう。
そしてこれは小さな決断も大きな選択でも大切な考え方だと思っている。この世界をより良くするのは、一人ひとりの"やりたい×できる"が重なったとき。我慢が中間点に変わったときだと思うんだよね。それに必要なのは、違いを認めて良さだと認識して受け入れる心と、自分のことを愛する気持ちなんだと思う。
だから、ほかの人のことを馬鹿にしたり、貶したり、毛嫌いしたり、知らないのに蔑んだり、知ろうとせずに放っておいたり、あんまり良くないと思うんだよね。
知れば分かる、その人の素敵なところも、その人の苦手なところも、自分に持っていないものを持っていることも。
人に、手を差し伸べ続けられる人でありたいよね。