愛せよ。人生において、よきものはそれだけである
原田マハさんの本の一節「愛せよ。人生において、よきものはそれだけである」という言葉が心に残っている。
この本を読んで流した涙をいろんなひとと共有したくて、日本語の美しさを分かち合いたくて、こと葉の生き様を讃えたくて、押し付けがましく多くの知人にこの本を貸した。
自分が主人公だったら、どんな物語になるのだろうか。
こと葉の転機のトリガーは言葉だった。日本語の力を兎にも角にも感じた本だった。愛は見える。思いは伝わる。シンプルなメッセージに、読む人はみな、共感するのである。
私の転機のトリガーはやはり、旅だったのではないか。自分とは違うバッググラウンドを持つ人と話した時、知らない生活を覗いとた時、無力感にボコボコにされた時。何が最善だったんだろう、答えのない問いに向き合う時間が、こと葉のように自分の背中を押し続けたように思う。
そしてこの物語を、これからも色付けたい、終わらせなくない、そう思い、旅を続けてしまうのである。
こと葉はスピーチライターとして、人々の心を言葉ひとつで動かしたが、残念ながらそんな力は未だに身に付けられていない。
ただ、自分の物語の中で見つけた大きな武器は「どんな状況でも自分らしい選択ができる、自分でいられる」ことだ。
家の観葉植物も切花も夏に耐えられなくて枯れたし、仕事も駆け出しで失敗ばかりだけど、小さな選択も大きな冒険も、全部自分で考えて、決めて、歩んできた。
ちゃんと自分の手で物語を描いてきたことが、どの瞬間も私の後ろ支えになってくれるのだ。
もっといいことがある。
それが、家族のおかげであり、知人のおかげであり、パートナーのおかげであり、世界中で出会った人の優しさがあったからできたことだという事実だ。
それが、私がもっと自分の人生を愛し、楽しむスパイスになっている。
自分の人生は紛れもなく自分のもの。
いつまでも続くのに、いつかはなくなるもの。なのに、"おかげさま"なのである。とんでもなく素晴らしいことだ。
毎日輝いてなくても良い。
たまに頑張れなくても良い。
いつも上手くいっていなくてもいい。
誰かのためにばかり、やらなくてもいい。
突っ走りすぎて、転けてもいい。
転けた後に、大成功してもいい。
他人が全部、自分を知ってくれなくて良い。
闘志の光が消える瞬間があってもいい。
燃えすぎてボロボロに帰宅する夜もいい。
燃えたのに余裕で早起きできる朝もいい。
自分だけの価値、自分である理由、自分らしさなんて、誰かの、ひとつの物差しでは測れないのだから。
自分の心に、嘘をつかない自分であれば、どんな瞬間も書き留めたいほど美しく見えるのである。
自分の人生が好きだ。
上手に生きることはできなくっても、どんな瞬間にも愛がある、この人生は完璧なのだ。
「愛せよ。人生において、よきものはそれだけである。」