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「インクルーシブ教育にはなぜ、素直に『いいね』ができないのか」に参加してみて
前回の1/25(土)のイベントで紹介されていた、学校の先生の研修会に参加してみました。
↓前回記事はこちら。
お話の抜粋・荒すぎる要約
スライド資料が手元にあるわけではく、少々のメモと記憶を頼りに、ざっくりと、まとめたものです。不勉強ゆえに、認識のズレがあると思います。すみません。
※保護者の方の声です!
・支援が必要なのは「子ども」だけではない。
大人側も「支援が必要」な状況であり、余裕がない。
・子どもだけでなく、大人(支援者側なども)、レベル(状況・キャパ)に見合っていない「ちゃんと」を求められすぎている。
・個人の努力や我慢で成り立たせるものではない。
・システム構想に問題がある。
・人手・予算不足であり、その基準は先進国で比較すると最低ラインであるものが多い。
・入試やルール、みんなでそこに苦しめられてない?
誰のためになっているだろう?
・色んなことを、ゆるめる、見直すことで、みんなが楽になる。それがインクルーシブにつながる。
私の(浅はかな)感想
①その通りだよな。
(いや、浅はか過ぎて申し訳ない…笑)
私も「ちゃんと」に縛られて生きている。
仰っていた通り、個人ができる「ちゃんと」の限界と、社会が求める(もしくは勝手に求められていると認識している)「ちゃんと」の基準に差がありすぎる。
学校生活だけではなく、家庭や仕事、活動、趣味、色んなモノが融合していく生活全般の中で、どうバランスを取っていくのか、これは本当に永遠の課題である。
どこまで「ちゃんと」する必要があるのか。
100「ちゃんと」する必要が、本当にあるのか、一旦立ち止まって見直してみる。0はマズイかもだけど、もしかしたら50で十分かもしれない。
そういう「ゆるめる」視点って、大切。
例えは、ジョギングも、5km走る時間を捻出できなくて、心折れるのではなく。3kmを週1回でも継続できる方が良いに決まっている。理想は5kmかもだけど、5kmにこだわるより、大切にしたいとモノは何か、見直す視点を大切にしたい。
話は逸れてしまうけれけど。
私は、多分誰にも求められていないし、期待されてもいないのに、常に自分との戦いをしている。ストイックな自分が好きだし、もうそれすら受け入れてるけど笑。
自分の作り上げた、無謀な理想像に向けて、常に全力疾走。全力で駆け抜けても尚、かけ離れた現実に途方に暮れる。そして、体調を崩す、という悪循環。
体調を崩してから「またやり過ぎたんやわ」の繰り返し。
最近指摘された「何も問題なんてないのに。あなたは、ない問題を自ら作り上げて悩んでいる。」という指摘と、真意は一緒かもしれない。
でも、そんな自分も結構好き。
それも、それで「まあそんなこともあります。」、「まあいいか」の、ゆるめる視点も大切に、だな。
脱線して、自己完結してすみません笑。
同じことの繰り返し過ぎて、言う必要ない気がするけれど。保護者の皆さん、学校の先生、医療福祉関係の支援者の皆さん、みんな「支援」という名の「余裕」が、まず必要。何度も同じ結論に至る…。
支援が必要なのは、本当に「子ども」だけではないですよね。みんな、悩んで、困ってます。
ちょっとベクトルは違う話だけど「こどもの貧困」だって、結局「おとなの貧困」ですもんね。
(研究室の先生の口癖だったので、一応ここで紹介だけしておく。笑)
②なぜ余裕を生み出す「仕組み」にならないのか
なぜ教育や福祉の予算や人手がずっと低い基準なのか
いろんな考え、説や、事実があるけれど。
結局は「人口が圧倒的に高齢者(マジョリティ)だから」というのが1つ大きいのかと、ぼんやり、思ったり。
…こうやって「高齢者」って一括りにして、分断して考えてしまうの、すでにインクルーシブとはかけ離れてしまっているのだけど。ごめんなさい。
→ 投票率の高さ・人口の多さもあり、高齢者向けの制度やサービスが優先されやすい。
→「ビジネスとして成立しやすいのも高齢者向け」 → 利用者数が多い分、収益化しやすい。
まあ結局「将来の利益を考える余裕がない」のでしょう。
(結論が結局「余裕の無さ」に帰結してしまう…)
→ 目先の課題(年金・医療・社会保障)に追われ、教育や子育て支援にリソースを割けない。
→ 短期的な利益を優先し、長期的な基盤づくりに投資できない。
将来、さらに苦しむことに直結すると分かっていても、今が苦しすぎて投資できない、ということですね。
③「分断」や「思考停止」に走ってしまう自分
余裕を失い、日々業務に追われ、心身ともに何かが溢れ出しそうなレベルのとき。もし、判定中に「大声を出している子」が目の前にいたら。
そして、その子の保護者の方が「嫌がられてるみたいだし、他の方にも難しいって言われてるんですけど…。中学校も、特別支援学校じゃなくて、地域の学校でみんなと一緒に学び続けたいんです」と言われたら。
自分は、その意向に沿うように、それが実現できるように、専門職として、考えられるのか?
家庭だけではなく、時に学校や地域に働きかけることができるのか?
…とても、インクルーシブにつながる考えや立ち振る舞いを取れるとは思えず。ひどく自責の念に駆られてしまう。
私は専門職なので、一括りに完全に責任転嫁して「自分のせいではなく、社会や組織に余裕がないから」とは言えないなぁ、と思う(自分に厳しすぎ?笑)
そこを変えていくソーシャルアクションを起こすのも、社会福祉士(ソーシャルワーカー)としての義務。
だから、精進しないですね。
④交流時間、反省ばっかり…の理由を考察
ベースが学校の先生同士の交流だったから
→ ワードについていけない、基準が分からない、反応が読めない。のオンパレードでした(笑)。
それでも、とても良い意味での「反応が読めない」でした。
学校の先生、皆さん、びっっくりするくらい多忙だと思うのですが、前向きに「インクルーシブ」を考えている。すごすぎる。私はフルタイムで働きながら、こんな前向きに考えられるのか…!難しいだろうなぁ。
寛大に、勤勉に、柔軟に、丁寧に、どうしたら「目の前の子ども」が元気に幸せに、安全に、過ごせるか、に向き合っている。組織の風土、立場や考え方の違い、色んな壁はある中で、できることをやる、向き合う。その姿勢にとても感動しました。
もう、改めて尊敬の一言です。いつもありがとうございます。
「教育」×「福祉」って、難しい
→ 私にとって「教育」領域が、全く知らないフィールドになってしまっているのは、重大な課題です。
卒業生として、教育福祉学類の趣旨にも反する。
もっと、学校文化や先生の悩みに、具体的に寄り添える人間でありたい。でもそうすると、また個人的余裕を失うかもしれない笑。
研修を通して見えてきた今後の課題
①インクルーシブな思考を持てるだけの「余裕」を持ちたい。
そして、日々「ゆるめる」「手放す」の訓練をしたい。
自分の「ゆるめる。ゆるまる。定例感謝祭」企画も、その練習に活用できたら嬉しい。
(自分にとっても、きてくださる方にとっても、日常に「ゆるめる」瞬間が少しでも増えたらいいなぁ、の気持ちです。)
またまた話が逸れますが…(読み飛ばしてください笑)
手放す恐怖もあるし、手放して、一瞬空いた「間」に、不安や後退、停滞を感じることもあるかもしれない。
でも、不安に負けて、空いた「間」を、前と同じモノで満たしていては次のステップに進めない。
でも、前に戻りたくなる自分というのも、当たり前であり、受け入れてあげることもまた大切なのだ。
と思うのです。以前受けたDV支援の講義から、派生させた、自分に対する叱咤激励です。笑
ちなみに元々は、配偶者の暴力から逃げたときに「配偶者のもとに戻る」という選択をする方に対する、考え方の理解、支援の在り方、について話されていたものです。
気になる方は、また訊いてください。
②私はやっぱり「子ども」の支援よりも「大人」の支援や、仕組み作り好き。
「大人(保護者)」の方の、お話を聴かせてもらったり、「余裕」や「より良い」を生み出せる、仕組み・システム作り、多職種連携が専門・興味分野なのです。実は。
(実は、でもないか。笑)
卒業研究も「多職種連携」で書きました。
支援者のネットワーク作りや、支援の在り方における課題、上手くいっている自治体に調査をして、上手くいく要素を抽出、概念図を提案、など、そういう研究自体も、とても好きです。
「仕組み」を変えるには、大きな動き(どこかに訴えかける、講演会や場を設定するなど。)が必要になることもあります。大変な作業も多いですが、そのアクションがいかに大切か、を忘れずにいたいです。
最後に
私は常に「インクルーシブ」を考えて動ける聖人にはなれないし、日々余裕を失っている側の人間ですが…。
今年の「ゆるめる」をテーマにした活動を通して、出会える人、自分も「お互いが少しでも楽になれる場」を作れたら、それが、ほんの少しずつ「インクルーシブな社会」に近づく一歩になれるのかな、と思いました。
私にできることって、見えないくらい微力だと思いますが、マインドを忘れずに、生きてゆきたいです。