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授業はたのしいだけでいい! ―あとがき

●「一言の記憶」から

 まだぼくが教師になりたてのころ,とても強い印象を受けた言葉があります。それは,板倉聖宣さんの「授業は楽しいだけでいいのか。もちろん,楽しいだけでいいのだ」といった言葉でした。
 それを知ったのは肥沼孝治さん(当時,埼玉の中学校社会科の教師だった)が本の紹介をした資料の中の,ほんの1〜2行の言葉で,残念なことに,その本の題名は忘れてしまっていました。
 ただ,その言葉は忘れられないものとして,ぼくの心の中に残り続けて,ぼくが『たのしい授業』に手書き連載をはじめるとき,その言葉を題名として書いていこうと決め,その理由を第1回の記事に書かせてもらいました。

 するとそれを読まれた肥沼さんは,古い資料を探し出して,その本の題名『教育の名言 すばらしい子どもたち』(堀真一郎・滝内大三編,黎明書房)を教えてくださったのです。

 さっそくその本を取り寄せて読んでみると,板倉さんの言葉は,ぼくが覚えていた文言とほぼ一致していました。まだ仮説と出会って間もないころの記憶なのに,こんなにしっかり覚えていたとは! それはきっと,ぼくがこの言葉を心の中で繰り返し使ってきた証拠だな,と思いました。

 しかし,さぐりあてたこの本には,板倉さんについては「この一言」が引用されているだけで,あとはその言葉を選んだ田中耕治さんの解説だけしか載っていませんでした。つまり,板倉さんがどんな流れでそれを語られたのかは,わからなかったのです。

 ところが,です。肥沼さんは,これが語られている板倉さんの原文をも見つけ出してくださいました。「板倉聖宣『科学と教育のために』季節社1979 の編者〔犬塚清和〕あとがき」にあったのです。

 そこに書いてあったことに,またまた感動して,ぼくは涙を押さえきれませんでした。

※この談話記録は,『たのしい授業』(2021年12月号 [ No.526 ])に再録されています。なお,この号の特集は「授業はたのしいだけでいい?」となっていて,「授業はたのしいだけでいいのかも?」と思わせてくれる記事がたくさん掲載されています。ぜひご購読ください!


●本来の意味は,ぼくが考えていたものと違っていた

 「授業はたのしいだけでいい」という言葉を,ぼくの中では,別の意味合いで使っていました。
 どういう意味で考えていたのかというと,「たのしい授業は終わらない」 ということです。「たのしいことは,自分でもやりたくなってしまう。興味を持ち続けていけたら,その授業は一生続いていく。そうやって,終わらずに積み重ねていけるから,授業はたのしいだけでいいんだな」と思っていたのです。

 でも,板倉さんの話は,そんなことではありませんでした。

 どちらかといえば,教育の「手段」として考えていたぼくでしたが,板倉さんは「手段じゃない」と言っています。もっと大事な「人権に関わること」だといっています。手段ではなく,目的として,原理として,授業は楽しいだけでいいのだ,と。


●ぼくたちのために語られた言葉

 なんと,板倉さんがこの話をされたのは 1977年の夏だと書かれていました。ぼくは1976年の12月に生まれたので,ちょうどぼくが生まれたころに,これから育っていくぼくらの人権を考えて語ってくれたということになります。力強く語られているその様子が伝わってきて,思わず泣けてしまいました。

 しかし,残念ながら,それから約半世紀が経とうとしている今でも,まわりを見回すと,「子どもたちのために」とは言いながら,本当に子どもたちの声に耳を傾けた授業は,ほとんどと言っていいほど普及していません。

 実は数年前に,2度目の免許更新講習を受けたのですが,「教育の最新事情」で語られている内容に,再びガッカリしてしまいました。これからの子たちに必要なことは・・・で言われている「情報化,グローバル化,人工知能などに対応する資質・能力の育成」など,大人たちも全くできていないようなことばかり。10年前に受けたときも同様に思いましたが,そんな,できてもいない大人たちの「子どもの未来のために」と考えたことが,その子どもたちにとって,いいものである保証なんて,どこにもないのです。

 最低でも,今をたのしく生きている大人が,「こういう考え方を学ぶことができたら,自分でも考えられるようになって,たのしく生きていけるよ」と思える内容であったり,子どもたちの意欲を自然とかりたたせるものであったり,子どもたちが自分 で自信を育めるものであったり,「仲間たちとのつながりの中で,新しいことは発見していける」と気づかせてくれたりするような授業でなければ,学ぶに値しないと思うのですが,どうでしょう。

 新学習指導要領を具現化したという「先行研究」の授業も見せてもらいましたが,そこで語られていたことも,大人目線で「子どもたちにこんな力がつきました」というような評価ばかり。「それって,子どもたちに,その授業がたのしかったのかどうか聞きましたか?」と首をかしげてしまいました。
 きっと,そういう観点では聞いてなどいないでしょう。そんなことはきっと,評価の対象にしていないからです。

 板倉さんはこの話の中で,

 子どもたちが楽しいと言うような,感ずるような授業が「楽しい授業」なんです。つまり,「楽しい授業」というのは,教育・授業における主権が子どもにある,ということなんです。
 「本当の楽しさとは」などと〈楽しさの定義〉をしようとする人がいますが,「他人が楽しさの定義をするとは何ごとであるか」とぼくは根本的に反対なのです。「楽しさが根本だ」といっておきながら,その定義を教師が決めるとか,文部省が決めるとか,権威者が決めるということは許してはいけないと思うんです。

板倉聖宣『科学と教育のために』季節社1979 より

 と話されていました。けれど,残念ながら,そこに耳を傾けた研究はごくわずかで,それをもとに作られている授業の実践はほとんどないのが今の現状です。

 そんな現実の中で,「授業は楽しいだけでいいのだ」などと言っている,ぼくのような先生がいたら,とても生意気に映るかもしれません。けれどもこれは,子どもたちの人権を守ることにつながることなので,ないがしろにしてはいけない問題なのだと気づかされます。


●楽しければなんでもいいのか?

 しかし,そんなことを言うと「子どもが楽しいと言えばなんでもいいのか?」ということが議論になるでしょう。例えば,最近ではよく「タブレットを使って授業したい」と,子どもは言います。つまらない授業を聞いているくらいなら,タブレットを使って,自分の好きなことを調べられた方が楽しいからです。本当に,そんなことでよいのでしょうか。

 そんな疑問にも,板倉さんは「原理的にはそれでいい」と話されていて驚きました。板倉さんは,人には自ら〈学びたい意欲がある〉ことを確信していたのでしょう。だから,いつまでもそんなことばかりしていたら,子どもは飽きてしまうとわかっているのです。
 そんなときに,子どもたちが,「やっぱり,みんなで学んでよかった」と思える〈学ぶに値するもの〉を用意することができるかどうかが大事になるというのです。板倉さんは以前から,「本当に学ぶに値することは,必然的にたのしいものとなる」と話されていました。「授業は楽しいだけでいい」というときの「楽しさ」とは,学びの持つ本質的な楽しさを意味しているのです。


●「授業はたのしいだけでいい」かどうか,まだわからないけれど

 「学校での生活の全て」を,たのしいものにすることは,現実的に不可能なのかもしれません。けれど,せめて,子どもたちの「授業の時間」だけは,たのしいと思えることでいっぱいにしてあげることはできないものでしょうか。
 現在では,それすら難しい状態ですが,少しでも「たのしいと思える時間」を多くして,いつか,本当の意味で子どもたちの人権を大切にできる「たのしい授業だけでいい学校」が,当たり前になる未来にしていきたいと思っているのです。

 そんな現実の中でも,「もしかしたら,たのしいだけでいいのかも」と思えたり,「子どもたちの気持ちを大切にするって,やっぱり大事だな」と考え直したりするきっかけを与えられるような記事を,これからもnoteで書いていきたいと思っています。
 多くの学校で, 少しずつでも,この「たのしい授業」のともしびが広がっていってくれることを願っています。

おしまい

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