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たのしい水泳授業への道

 2025年の4月に向けて,『たのしい水泳指導のへそ』という本を,新しい形で出版したいと考えています。そこで,2月までにその原稿を書き上げるつもりです。冬に水泳のことを自分一人で考えていくのはなかなか難しい作業なのですが,noteに連載していく形で紹介していけば,まとめられる気がしています。ご感想,ご指摘があるとありがたいです。明日にでも,水泳の授業がしたくなってしまうようなものをめざして。おつきあいください。


はじめに

●学校での水泳の授業と,スイミングの指導法

 みなさんは,「学校現場での水泳指導」というと,どんな感じの授業を思い浮かべますか?

 「一斉指導」という感じでしょうか,それとも,「個別指導」という感じでしょうか。はたまた,「どちらも織り交ぜてやっている」という感じでしょうか。

 以前のぼくは,水泳の〈指導〉といわれると,「個別指導」,つまり〈スイミングスクールでの指導〉の様子を思い浮かべていました。自分もそうやって習ってきたからだと思うのですが,同じ泳力の子どもたちを小グループにして,コーチが一人ひとりの子どもの動きに手を入れて個別指導をしていく,あのスタイルです。
 スイミングスクールでは,その指導により,週1回のレッスンだというのに,子どもたちはメキメキと上達していき,驚くほど泳げるようになるのですから,ムダのない素晴らしい指導法です。

 そこでぼくも,そのような指導法を学校での授業に取り入れて,同じように指導しようとしていました。

 ところが,これが,なかなかうまくいきません。考えてみると,学校現場では夏の時期の10時間程度の単元で,まとめて授業を行うだけ。それが終わってしまったら,また来年まで指導するチャンスはありません。学校でのプール指導は,短い期間での短期決戦なのです。しかも,100人近くの子どもたちを,数人の教師が教えなければならず,安全指導だけでも精一杯。「個別指導で泳力を伸ばしていく」というのは,実際のところはかなり大変です。

 それなのに,「学習指導要領」を開けば,目標だけはきっちり掲げられています。低学年では「水に慣れ」,中学年では「浮いたり泳いだりできるようになること」をめざし,高学年では「長い距離を泳ぐこと」が求められます。
 先生方は,試行錯誤を繰り返すなかで,スイミングスクール的な指導をマネしてみたり,「近代4泳法」にこだわらず,長い距離を泳げるようになる「ドル平」のような独自の泳法を編み出したりと,努力を重ねてきました。

 しかしながら,ぼく自身は「これでいい」と満足できるような授業のレベルに達することはなく,せめて水泳の授業がつまらない時間にならないように工夫することくらいしかできていませんでした。ぼくだけでなく,多くの先生方が,悩みながら授業をしているというのが,今の学校現場の現状だと思います。

●新しい水泳授業誕生のきっかけ

 ところが,「これは画期的な授業かもしれない!」とぼく自身が感動してしまうような授業の方法が,突然生まれました。
 それが生み出されたきっかけは,滝本恵さん(埼玉・中学校)の書かれた『よちよちスイマーの教わった水泳指導のへそ』という本に記録されていた〈動きのコツ〉と,ぼくが器械運動の授業で取り組んできた,〈テンポ良く運動課題を出していく授業スタイル〉が出会ったことによります。

 そして,2019年の夏休みには,滝本さんご本人が,ぼくの学校のプールに来てくださり,本ではわかりにくかった動きなどを実際に教えてくださったことで研究が進みました。さらに,夏休みのプール指導の時間にぼくが授業を行う様子を見学され,授業を受けている子どもたちの様子をレポートしてくださったりしたおかげで,新しい水泳授業の形が一気にまとまり始めたのです。

●「水泳」というものの捉え直し

 そんな「新しい水泳の授業が形になるかもしれない」と気づいてしまったぼくが,改めて捉え直したいと思ったことは,「泳げるようになるというのは,どういうことなのだろう。それって必要なことなのだろうか。泳げるって,そんなに大切なことなのだろうか?」ということでした。
 どんなことでもそうなのですが,「誰でも身につけられるかもしれない」と思う教育法に出会ったときには,本当にそれが必要なことなのかどうかを確かめておきたいのです。理由もなくできるようにさせられることほど,恐ろしいものはないからです。そのために,水泳の歴史を少しだけ探ってみることにします。

 水泳が人類の歴史に登場したのは,紀元前の大昔。今から4000年以上前のエジプトの時代に,王の教養の一つとして壁画に描かれているのが最古の証拠だとされています。

 ナイル川とともにあった生活に,泳げることは第一条件として挙げられていたようです。もちろん,それ以前から,食料を海から得ていた人類は,泳げることは生きるために必要な技術だったに違いありません。

 しかしながら,現在では,特に水の中に入らなくても生活に困るということはなくなりました。水泳選手や海上保安官,漁師さんや海女さんなど,漁業に携わる人にでもならない限り,特に泳げなくても支障はありません。つまり,たとえ泳げなくても,幸せに生きていけることは間違いないでしょう。

 では,なぜ「泳ぐこと」を,わざわざ学校で学ぶのでしょうか。泳ぐという文化がなくならず,現在でも教育が行われているのは,なぜなのでしょう。公立私立を問わず,ほどんど学校に「プール」が併設されているなどというのは,世界中でみても日本くらいのものです。みなさんはどう思いますか?

 学習指導要領では,「なぜ泳ぎを学ぶのか」の明確な理由までは明らかにしてくれていません。目標のところに,「より現実的な安全確保につながる運動の経験として,着衣をしたままでの水泳運動を指導に取り入れること」と書かれていることから,水難事故防止の意図はありそうですが,「学ぶ理由」として明記されているわけではありません。「水泳運動を通して,自分の成長を感じることを学ぶ」ことを重視しているようです。

 けれども,それならば必ずしもクロールや平泳ぎが泳げるようになる必要性はないということになります。できなくても,自分の成長が味わえればよいわけですから。

 では「なぜ,学校で水泳を学ぶのか」。ぼくはこう考えるようになりました。それはきっと,「泳ぐという運動自体が,とても〈たのしい〉と感じるものだから」なのではないか,と。

 水の中に入ることは,気持ちがいいし,それだけでたのしいことです。人は,その魅力にあらがえません。川があったら入ってみたくなるし,海があったら波に揺られたくなります。プールや海水浴は,人々の人気スポットです。
 その魅力にとりつかれ,水の中に入ったとき,人はそこで,よりたのしむことを求めます。そこでは,決して〈泳げること〉が目標とされるのではなく,その水の中で「自由に動けること」が,たのしさを感じる一番の近道になる と考えるようになりました。

 水の中での様々な動き方を,ひとつひとつを提示できるようにして,いろいろな動きをなんとなく試していくうちに,水中での体の動かし方ルールが自然と身につき,その動きを基礎として,泳ぐことにつながっていく体験ができるような授業をめざしたらよいのではないでしょうか。

●たのしい水泳授業の誕生

 「水泳の授業は,どのようにしたらたのしいものになるのか」―その問題のとき方は,今まで毛嫌いされてきた〈マット運動〉の授業を変革させる方法と,とてもよく似ていました。
 「技ができるように練習するのではなく,その技に必要な動きはどんなものなのかを見極め,その動きを提示し,たのしみながら運動しているうちに,その技の基礎が身につき,いつのまにか技自体もできるようになっている」という授業の形。それこそが,水泳の授業における「泳ぎ」の習得にも有効なのではないか,と考えるようになったのです。

 水を怖がる子をよく目にします。どうしてそこまで怖がっているのか,理解に苦しむことも多いのではないでしょうか。
 かくいうぼくも,子どものころ,水が顔にかかるのが大嫌いでした。頭を洗うのも怖い。シャンプーハットがなければ,シャワーも〈恐ろしい兵器〉に思えました。
 でも,今になって思えば,それは〈水のルール〉というものが,よくわかっていなかったからだと思うのです。シャワーを浴びている時に下を向けば,目を開けていても,目の中に水は決して入ってこないのです。水に潜ったとき,鼻をつままなくても,そこ空気があれば水は入ってこないという《空気と水》のルールを,知らなかったから怖がっていたのです。

 そういうことを,授業の中で,ひとつひとつ確かめていくような展開を考えるようになりました。水の中で,〈こんな動きができるのかな?〉と,試してみたくなる問題を出していき,それが本当にできるのかどうか,自分の体を使って実験していくような授業に,子どもたちは見事に乗ってきてくれました。

 水の中のルールを知り,様々な動きを試すうちに,水の中で自由に体を操ることができたなら,そのときにはもう,どんな泳ぎ方でもできるようになってしまうでしょう。

 今まで少しも疑ったことのなかった「泳げるようにさせる」という目標は,少し偏りすぎていたのかもしれません。本当の目標はそこではなく,「もっと水の中で自由に動けるようになること」だったのです。

 そんな,新しい水泳授業のかたちを,フリップとその解説をもとにして紹介していきます。


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