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同時代を生きる仲間とともに

 「教師」と「子ども」という関係の前に,同時代を生きる仲間なんだよなぁ。

 そんなふうに思えてしまうのは,授業書が創り出してくれる雰囲気が,科学の考え方を前にしたときに人々が感じる,あたたかい平等感と似ているからだろうか。

 そんな,かけがえのない仲間とともに,いろいろなことを学びたい。そう思えるから,僕は仮説を続けているのだろう。

●誰にでもできるか?

 授業書を配って,一緒に読んで,子どもたちから出てくる意見を面白がって交通整理をする。それが,みんなと仮説実験授業をたのしむための僕の仕事。子どもが喜んでくれる,自分もたのしい。だから続けている。

 「誰でもできるか?」と問われれば,「誰でもできるものではない」と答える。同じ授業書を使っても,いまの「教育現場の常識」でもって授業すれば,子どもをいじめることだって簡単にできる。

・問題1から,全員で正解できるように,みんなで考えましょう。

・この授業は誰でも内容がわかるように作られています。わからなかった人は,話をしっかり聞いていない人です。よく集中して,しっかり考えてください。

・この授業は,多くの人がたのしめるように作られています。「たのしくなかった」などという人は,どうしたらたのしめるようになるか,自分でよく考えてごらんなさい。

・姿勢よく話を聞いてください。無駄なおしゃべりをするなんて,集中していない証拠です。だからたのしくならないんです。

・感想文用紙がいっぱいになるくらい,感想を書いてください。「感想が書けない」なんて,授業中,よく考えていなかった証拠です。

・たのしむことに,もっと一生懸命になりましょう。

・「授業がつまらない」なんていうのは,たのしもうとしなかったあなたのせいです。

・人の考えを聞いたら,もう予想変更はしちゃダメです。人のマネなんかしないで,自分の考えをもっと大事にしてください。

・いま「原子論」を理解しておかないと,あとで困りますよ。

・盛り上がった討論ができるまで,実験はしません!

 …いじわるくこんなことを考えてみると,逆になんだか笑えてくる。そんなことをしたら,せっかくたのしく考えられるように作られている授業だって,たのしくなくなるに違いない。
 けれど,そうに思えるようになったのは,やっぱり授業書のおかげなのだと思う。授業書の授業が,学ぶことをたのしむ子どもたちの一面を教えてくれたから,普通に考えられている教育常識に,僕は縛られなくなったのだ。

●5年生との《溶解》の授業で

 問題1では,「〈とける〉というのはどういう状態なのか?」ということを考えるため,身近にあるものを使って〈水にとけるかどうか〉を予想して,実験する。「水にとけそうなもの」ということで,「さとう」「しお」「チョークの粉」「ミョウバン」「トイレットペーパー」の5つにしぼって考えることになった。「トイレットペーパー」というのは子どもから出てきた意見で,授業書にはない。そんな子どもから出てくる自由な発想も,授業書は柔軟に受け止めてくれるから,授業者の僕も安心して取り入れられる。

 授業書に出てくる「ミョウバン」は,知らない子がほとんどなので,「最近,おせち料理で〈くりきんとん〉を食べたでしょう? あれを光らせるためにまぜたりするものなんだって。照り焼きなんかに使われることもあるらしいよ」と教える。
 それだって,授業書をやる前には僕も知らなかったことで,「へ~!そうなんだ~」と感動的に学んだことだから,とても親近感をもって,イヤらしくなく伝えることができるのだろう。

 「コップ1杯の水に,スプーン1杯のこれらが,とけるかどうか」を予想。実際に,さとうや塩,チョークの粉,ミョウバンの粒などをコップに入れて配り,さわってもらいながら考えてもらう。さとうや塩は〈とける〉が多数,それ以外は〈のこる〉の意見が優勢で,いざ実験。あっという間にとけてしまうものもあれば,とけるのに時間のかかるものも。透明になるものもあれば,にごってしまうものもある。では,どうなったのが〈とけた〉といえるのか?

 「とかしてみたい!」という子が前に出てきて,一生懸命かき混ぜてくれる。トイレットペーパー担当のれなさんは,授業が終わって給食の時間になっても,がんばってかきまぜ続けてくれていた。
 「トイレットペーパーはとけるっていうけど,これ,バラバラになるだけじゃない?…でも,少しはとけてるのかな?」

 あいなさんが担当したミョウバンは,かなり時間がかかりながらも,じきに見えなくなった。「やってるときは無理だと思ったけど,ちゃんととけた! なんか,感動!」

 普段の授業では見られない,純粋に好奇心で動く姿が見られたり,ステキな感想がたくさん聞こえてきたりする。授業でありながら,これは僕の〈たのしみごと〉なのだ。子どもたちの笑顔を見るにつけ,そんな授業を提供することができている自分に,嬉しくなってしまうのだ。やりたいからやっている。やりたいことは,どんなに忙しくても,時間をつくってやってしまう。そんな感じだ。

●とけた?とけてない?

 「とけたかどうか」を判断するために,「塩をとかした水」と「チョークをとかした水」を比べる。「食塩水はすき通っているけど,チョークの水はにごっている」…この見た目を基準に,「水がすき通るようになったら〈とけている〉んだね」とみんなで確認した。

 では,「食紅をとかした水」はどうか?  色はついているけど,すき通っている。食紅はとけているといえるのか? 実はこれも「すき通っている」ので,〈とけている〉といえるのだが,これらを理解するために「水にとかした塩は,1週間ほったらかしにしたら,どうなるか?」というものを,まず考える。

 みんなの予想はどうだったかというと,「全部底にたまっている」という意見と「少しは底にたまる」という意見と,「そのまま」という意見に分かれた。これは,考えれば考えるほど,大人でも迷ってしまう問題だ。

 実際に実験してみる。といっても,前回,塩がとけたことを確認した食塩水を,教室の戸棚の中に入れて,ほったらかしにして一週間以上たったものを見せるだけ。
 結果は…「まったくそのまんま」。底にたまることは,少しもない。ずっと教室に置いてあって,誰も見向きもされなくなったビーカーに,再び子どもたちの視線を集まった。

 それでは,1年経ったらどうだろう?

 実は,それでも底にたまることはない。水にとけた塩は,一度とけたらそのままで,何もしなければ,水の中で塩に戻ることはないのだ。これが「とけた」ということなのだ。

 そこで,「食紅」の話題に戻って,「色がついているけどすき通った水」は,長い間そのままにしておくと,どうなるか? という問題を考える。
 選択肢は,「粉が下にたまる」「上の方が無色透明になる(下の方はそのまま)」「全体的にそのまま」で,意見が分かれた。同じように,棚に入れて何日も置いてから確認する。

 結果は…「そのまんま」。つまり,「一度水にとけたものは,そのまんま」なのだ。

●でも,そう簡単に人は納得しない

 これだけ何度も同じような実験すれば,もうわかってしまいそうなものだが,それだけでは納得してくれないのが人間だ。
 「一度とけたものは,何年経ってもそのまま」というのは,科学者が確かめた真理。でも,それをいくら知識として伝えても,「砂糖を水にとかしたら,やっぱりそのままでしょうか?」という問題を出せば,意見は分かれる。みんながみんな,「そのままだ」とは答えないのだ。
 クラスで聞いてみれば数人は「砂糖は下に出てくる」に手をあげる。それは,「教えたことが理解できていない子」なのだろうか?

 実は,そうではない。その選択肢に手を上げるには,ちゃんと理由がある。「なんとなく」と言って,はっきり言葉にできない場合もあるが,たいていは「塩はそうだったかもしれないけど,砂糖では違う」とか「紅茶に砂糖を入れた時に,時間が経ったら下にたまっていたのを見たことがある」とか,自分の生活上の経験で,いくらでも説明ができる。「考えるから間違うことができる」のだ。

 何度も確認しているはずの問題に,正しく答えられない子。そこに,人間の思考の豊かさをみることができることを僕に教えてくれたのは,紛れもなく授業書だった。
 「いつも間違えない」などというのは,「教え込まれたことを信じて,何も考えずに点数をとろうとしているだけ」とも言える。「新しいことに挑戦すれば間違える」ということは,子どもたちも体験として知ることができるだろう。

 けれど,何度も実験を繰り返すうちに,「う~ん,どうやら,科学者が言っていることは確からしいぞ。しかたない,科学を信用するしかないか」となって,初めて自分のものになる。そういう体験が,押しつけなく自然とできてしまう授業書に,僕の考え方は大きくとかされた。

 そして,目の前の子どもたちにも,そんな経験をたくさんさせてあげたいと思った。誰かにやるように指示されているわけではない。僕がそうしたいからそうしているだけ。つまり,僕が授業書の授業感に魅了されているのだ。

 「100 gの水に,塩や砂糖がどれだけとけるか」を予想して,班ごとに実験。塩が 30 g程度しかとけなかったのに対して,砂糖がウソのようにとけていくことに,みんなビックリ!

100gの水 と ,10g-50g-100gの塩


 あまりのとける勢いに「全然違う!」「10gずつじゃなくて,いっきに50gやらせて!」というお願いも。
 実物で作った選択肢を見てもわかるように,50gの見かけはとっても多い。それでも,とけていってしまう様子に,子どもたちは興味津々だ。


  中には,手を入れて,とける様子を指で感じている子もいる。砂糖が分子レベルの小ささになって,水の中にバラバラになっていく様子が,手の感覚から感じ取れる。
 ベタベタどろどろ,触ったり,なめたり。遊ぶように,分子のイメージを膨らませる子どもたち。
 氷砂糖を口の中に入れたときは,

「とけていくのがよくわかるわ~。だから先生,もう一回!」

などという発言にもほほえましくなる。

***

 さて,水にとける量というのは物質によって決まっていて,普通の温度(20 ℃程度)なら,砂糖は100 gの水に,なんと 200 gを超える量がとける。「とけることのできる限界を,食べ飽きるという意味で〈飽和〉という」と教わり,次の「温度によってとける量は変わるか」という実験へ。

 はじめにやったのは,最初の頃に出てきた「ミョウバン」。ミョウバンは,砂糖や塩よりも,ぜんぜん水にとけない。やってみたら,10 gもとけなかった。
 けれど,ビーカーを熱して,水の温度をあげていくと,とけるとける…。ぜんぜん違うことにビックリの子どもたち。砂糖も同じように,温めてあげるとどんどんとける。じゃあ,塩は?
 実は,塩は温めても,とける量はほとんど変わらない。これには子どもたちも不思議そうに見守る。ものがとけるって,本当に不思議。

 たくさんとかしたミョウバンは,1日経つと,下の方に結晶になって,あらわれていた。温度が下がって,水が食べきれなくなったミョウバンが,下に出てきたというわけだ。その美しさに魅了される。

 さらに,「とけた砂糖はどこに消えたのか?」という問題を考える。初めの問題は,「砂糖をとかしたら,重さは変わるか?」
 ここでも,意見は分かれる。「そこにある」とは思うけれど,見えなくなることで,重さはどうなるのだろう?

 改めて考えてみると,自分の理屈にも自信がなくなってくる。「かるくなる」「おもくなる」「かわらない」の,どの選択肢にも,もっともな理由がある。だからこそ,真理は,多数決で決めるのではなく,実験によって決めるしかないものなのだ。

 結果は「かわらない」。ものすごく小さくなって見えなくなっただけで,全ての砂糖が,そこにいるということの証明だ。見えなくなった分子が,イメージの世界で見え始める。

●授業の後で…

 そんな感じで,たのしく進めてきた《溶解》の授業が終わった。特に激しい討論などもなかったけれど,子どもたちの感想を読むといろいろな驚きがあったことがわかる。

・水とアルコールでは,とけるものが違うんだな,とわかりました。「ものがとける」というのは,水分子がぶつかって,くっついていた分子が手をはなして,バラバラになってみえなくなることなんだな,と思いました。(りゅうくん⑤)

・とてもためになった。アルコールで,砂糖と塩がとけなくて意外だった。ベンジンとアセトンがほしくなった。ガムがついたら全部とれないのかと思っていたけど,とる方法があったなんて驚いた。とけることや,とけないことを使うと便利だと思った。(れなさん ⑤)

 食塩に水分子がぶつかると,食塩を構成している原子たちは手をはなしてバラバラになり,目には見えないくらい小さい分子になることで,透明になる。そうなると,もう「ろ紙」でつかまえることができないくらいになってしまう。・・・そういう科学のイメージが,人間の生活を豊かに変えてくれるのだ。
 そんなことが感じられる場面に時々出くわすことがある。今回は,授業が終わった後にそれがあった。

 「水にとけた砂糖は取り出せるか?」という話題になったとき,「べっこう飴になってしまって取り出せない」という話をすると,「やりたい!やりたい!」の大合唱になった。
 それではということで,教室にホットプレートを用意し,アルミケースに砂糖を入れて熱していく。すると,みるみるうちに黄金色に変身していく様子が見られる。熱でとけた(手をはなした)砂糖の分子が,今度は別の分子と手をつなぎ出す。

 熱したアルミケースは,自分の机の上に持っていって,かたまるまで待つのだが,途中でひっくり返して床にベチャン!という子もいる。
 「お~い,教室の床でべっこう飴を作らないでくれよ~」なんて冗談を言いながら,たのしいひとときを過ごしていた。

 すると,何人かの子どもたちが「先生,木彫コースターの時に使うピン(画鋲)を貸してください」と言ってきた。何を始めるのかなと思ってみていると,床で固まったべっこう飴を,ピンではがそうとしているのだ。
 「自分たちで後始末までできて,エライなぁ」などと思って見ていると,「ぜんっぜんとれない。もうダメだコレ!」と騒いでいる。床が冷たくて,瞬時に固まってしまったらしい。それでも何とかとらなくちゃ,とがんばっている子どもたちを見ながら,「ちゃんと責任をもって片付けてくれよ~」などと他人事のように思って見ていると,陽太くんが「水でとかせばいいんじゃない?」と,教室加湿用の霧吹きを持ってきて,べっこう飴にふきかけた。
 これにはみんなも「なるほど~!いいね~」の高評価。僕も思わず「スゴイ!!」と感激してしまった。

「水分子がぶつかると,砂糖の分子は手をはなす」

 知識としてわかっていても,それを普段の生活で生かすことができるには,やっぱりイメージする力が必要になる。水をかけて少したってから雑巾でふきとると,あっという間にとることができた。科学が自分たちのものになった瞬間だ。

●「とけやすいもの」と「とけにくいもの」があることを〈使う〉

 塩や砂糖は水にとけたが,同じ液体である「アルコール」には,まったくとけなかった。アルコールの分子がぶつかっても,塩や砂糖の分子の手をはなさせる性質はない。それとは別に,油性インクは,水や石けんにはとけないけれど,アルコールやベンジンにはとける。油性インクの落書きを消そうと思ったら,石けん水でいくらこすっても,なかなかとれないが,布にアルコールをつけてふきとると,かんたんに落とすことができる。

 先人達が実験して明らかにしたことは素晴らしい。けれど,自分が納得できなかったら使えない。科学は,「なんだかわからないもの」となってしまうと,「特別に頭のいい人だけの特権」であり,「つめたいイメージ」になってしまうけれど,本来,科学というのは「誰がやっても同じ結果になる」ということで,「最も平等なもの」「あたたかいもの」なのだ。興味をもって実験し,「科学的な法則」を発見してきた人たちの喜びを追体験しながら,これからも,科学を「自分たちのもの」にしていきたい。

 最初に霧吹きの水を持ってきた陽太くんは,特別支援学級に在籍している。国語と算数以外の授業では,交流としてこのクラスに来ている子だ。読み取りが苦手で,書くことも大変。
 初めての授業書で,「読んでください」とぼくに当てられた時だって,「オレは読めない…」と遠慮した子だった。「うまく読めなくてもいいから,読んでくれないかな? 授業書の文のどういうところが読みにくいところなのか,知りたいとも思っているんだ」と頼むと,とてもゆっくりだが,丁寧に読んでくれた。それ以来,他の授業でも,教科書だって,読んでくれるようになった。
 そんな彼が,クラスのみんなから「なるほど,やるなぁ!」と注目される瞬間がある。教師である僕も,陽太くんから大事なことを気づかせてもらえる。

 いや,僕らは

 「教師」と「子ども」という関係である前に,科学が生まれ育ってきた歴史から見れば,「同時代を生きる仲間」なんだよなぁ。

 そんなふうに思えてしまうのは,授業書が創り出してくれる雰囲気が,科学の考え方を前にしたときに人々が感じる,あたたかい平等感と似ているからだろうか。

 そんな,かけがえのない仲間とともに,もっともっと,いろいろなことを学びたい。そう思えるから,僕は今日も,仮説実験授業を続けている。

・じっけんがわかった。こおりざとうがおいしかった。さとうは水でとけてよかったです。アルコールでは,とけないんだとおもいました。(ようたくん ⑤)

 一生懸命書いてくれた感想文に,またひとつ,僕のなにかがとかされた。こういう瞬間に出会える限り,僕はこれからも仮説実験授業を選び続けていくだろう。

おしまい

※子どもたちの名前は仮名です。

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