noteだって短歌だって、共感されたい!
アブラゼミの大合唱のなか慣れない毛筆で歌をしたためたあの9月から、のらりくらり過ごしていたら、気づけば太陽光を有り難がれる季節となり、ついに歌会始の入選者が発表されました。
なんの会にも所属せず、剣山を積まずに、李徴も驚くほどの自己満足で歌を詠んでいるだけなので、こんなことをいうのも笑止千万なのですが、
残念だなー、結構期待してたのに。笑
自分のあの歌、結構好きだったんだけどな。
それもそのはずですよね、歌のいいところって共感できるところで、自分で詠んだ歌ならば共感度MAXに違いないんだもんねぇ。
短歌はタイムカプセル
私にとって短歌はタイムカプセルです。
いつまででも覚えておきたい感情や風景に出会ったときに、それを歌としてしまっておけば、あとはその31文字を口ずさんだだけで、ちょうどタイムカプセルを開たときにフワッと記憶が蘇るみたいに、いつでもその気持ちを感じて、その風景を見て、香りまで嗅げる。
それが1000年前の貴族が京都で感じたものだろうと、昨日の私が駅前で見たものだろうと、関係なく楽しめる短歌が、私は好きです。
ただ、1000年という時を生き抜いてきた素晴らしい和歌の数々とは違って、自分は私的な日記のようなつもりで詠んでいたし、臆病な自尊心と尊大な羞恥心も相まって、何かに応募したり公表したりはしてきませんでした。
一人で詠んで書き留めておいては、時々思い出して自己満足に浸るという、短歌の地産地消。
それで満足していたつもりだったのですが、やはり忘れられない一つの感情があります。
見知らぬ誰かに共感されるということ
それは、お〜いお茶新俳句大賞で佳作特別賞をいただいた時のことです。
わたしの中高では、例年この俳句大賞に応募するのが冬休みの宿題になっていました。
最初の頃は、提出期限前日に冬の季語を検索して、銀世界はきれいだね、みたいな句を適当に作っていたのですが、古典の授業を受けていくうちに詩歌に興味を持ったわたしは、ちゃんと自分が感じたことを句にしたためたいと思い始めました。
そして辛酸を舐めること3回、つまらない授業中に感じた衝動を詠んだ句で、佳作特別賞をいただきました。
「わかってもらえたんだ、誰かに。」
そう思いました。
友達に言えば「変なの」って笑われるだろうし、先生に言えば不真面目だって怒られそうな、誰にも言えないし言うほどでもない。
でもどうしようもなく感じてしまうこの感情を、理解してくれた、共感してくれた大人が何処かにいる。
賞を貰えたのはもちろん嬉しかったのですが、それ以上に、
自分一人で思っていたことを、見知らぬ誰かに共感してもらえた、という安心感に包まれました。
これは初めての感覚でした。
「共感」そのものは日々のコミュニケーションの中に溢れています。特に若い女性コミュニケーションにおいてはその大半を占めているんじゃないでしょうか。わかる、それな、あーね。共感しておけば波風は立たないし、手っ取り早く仲間意識が芽生えます。便利なツールです。
しかし、見知らぬ人に共感される、というのはこれとはまったく別物です。
生活背景や年齢性別が同じかどうかもわからない、仲良くなる必要もごまをする必要もまったくない、なのに共感する、ということは、その文章なり作品なりに対する最高にピュアな共感であり評価です。
見知らぬ誰かに深く共感する、という経験は誰しもあるものです。本や美術作品に触れて、自分の考えが言語化されている嬉しさや、仲間がいたという安心感を感じたり、なんでこの人は私のことを知ってるの!?と驚いたこともあると思います。私も幡野宏志さんの文章を読みながら、何度首がもげるくらいうなずいたことかわかりません。
この共感する喜びの大きさを知っているからこそ、共感してもらえたときの喜びは計り知れません。誰かに分かってもらえたという安心感もさることながら、自分が何かに共感した時に感じたような安心感や喜びを、自分が作り出した作品で与えられたかもしれない、という嬉しさもあります。
すごく中毒性の強い感情です。
2020年はnoteを始めた自分を褒めたい
自分の俳句がペットボトルに載って、共感される喜びを知ったものの、批評されることへの恐怖やアウトプットの面倒臭さに、ずっと何もしないでいました。
今年8月、このnoteを始めたのは、長期化する自粛生活でネットフリックスやYouTubeによるインプットが過剰になり、アウトプットする場を作らないと脳内が情報で洪水しそうだったからです。
結果、ナイスプレーだったぞ、私とコロナ。
短歌、詩、スペイン語、コロンビアのバンド。
身の回りには共感してくれる人なんて一人もいなかったけど、「好き」という気持ちを込めて書いた文章には、想像以上の方がコメントやスキを残してくださいました。
通知が来るたびに、ダッシュボートの数字が回るたびに、私だけじゃなかったんだ、書いてよかった、って思います。
短歌に自信がないのに歌会始に詠進歌を送れたのは、実はnoteのお陰でもあります。送ろうか迷ってgoogle検索してみても、全然体験談や解説ページがないので困ってしまい、ならば自分が詠進してみて他の人に少しでも参考になるようなnote記事を書けばいいじゃん、と思って踏ん切りがついたのです。
ありがとうnote。
歌会始に入選できないにしても、臆病な羞恥心を捨てて、誰かの魂を救えるような文章や短歌を詠めるようになりたい、というのが2021年の抱負です。
でもやっぱりあわよくば来年度の歌会始に出たいや。
来年もよろしくお願いいたします。