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竜宮城からの招待状(パスポート) 7話 地上最後のパーティー

 翌朝、慶汰はアーロドロップと共に、海来の病室を訪れていた。
 ベッドに横たわる姉は今日も、相変わらず生気を失ったように眠っている。心電図モニターが、無機質な音を虚しいリズムで淡々と鳴らしているだけ。
 二人分のパイプ椅子を並べた慶汰は、今にも崩れてしまいそうな海来の手を布団から少しだけ出した。
「姉さん。いよいよ、〝りゅうぐう〟竣工記念パーティーの日が来たよ。それで……急なんだけど、俺、明日からしばらく来れなくなるかもしれないんだ」
 瞼はぴくりとも動かない。
「我が家の倉庫に眠ってた玉手箱、あるだろ。あれ、やっぱり本物だったんだ」
 耳もまったく反応しない。
「地球には龍脈っていう魔法の源みたいなエネルギー源があって、玉手箱はその力によって浦島太郎を急激に老化させたって仮説が立ってさ。不思議だろ?」
 指先も、微動だにしなかった。
「それを教えてくれたのは、竜宮城からやってきた、現代の乙姫様の娘さんなんだ。紹介するよ、アーロドロップ乙姫第二王女様」
 慶汰の隣で、ずっと沈黙を守っていたアーロドロップが、ゆっくりと口を開く。
「お初にお目にかかります、海来さん。あなたのことは、慶汰君から聞いております。竜宮城から来ました、アーロドロップ・マメイド・マリーン乙姫第二王女と申します」
 腰の後ろでひらひら揺れるストールの左右を握ったアーロドロップは、胸の前で静かに合わせて顎を引いた。
「ご自宅の倉庫にあった玉手箱は本物です。不本意ながら異常なポテンシャルがあることも確認できました。浦島太郎を老化させたあの玉手箱の力を用いて、今度はあなたを目覚めさせます。ただ、それにはもしかすると、もうしばらく時間が掛かってしまうかもしれません。それまでどうか、もう少しだけ頑張っていただけますか」
 そうして、聞こえているはずのない海来相手に、慶汰とアーロドロップは自分たちの計画を報告した。
 玉手箱を一旦竜宮城に持ち帰る必要があること。そのために慶汰も竜宮城に同行する必要があること。慶汰がそれを快諾したこと。竜宮城の時間の流れが不規則なこと……。
「姉さん。寂しい思いをさせてごめん。でも、俺は行くって決めたから……待っててくれよ。絶対助ける」
「玉手箱の解析、改良にどれだけ時間がかかるかはわかりません。ですが必ず、あなたを助けることを誓います」
 アーロドロップがそう伝えた時、慶汰のズボンのポケットが、スマートフォンのバイブでブルブル震える。それをすぐに止めて、慶汰は海来の手を布団の中に優しく戻した。
「一時間経った。行こう」
 昨日の作戦会議の中で、お見舞いは一日一時間までというルールとその経緯もアーロドロップに話している。それを聞いたからこそ、アーロドロップは慶汰の袖をつまんだ。
「……今日くらい、そのルールは無視したら?」
 慶汰は即答した。
「それじゃまるで、今日が最後になるかもしれないみたいじゃないか。そんなつもりなんてないんだ、ルールを破る理由はないな」
「どうしてそこまでこだわるの……?」
「一族に代々伝わる教訓なんだ。『奇跡を願うならば、叶うと信じて歩き続けろ』」
 慶汰はパイプ椅子を片付けて、海来の寝顔に目を向ける。
「六〇〇年間、竜宮城があるって信じて疑わなかったご先祖様たちの言葉だよ」
 アーロドロップが、大きく頷いた。
「じゃあ代々願ったその想い、しっかりと受け取らないとね。……もしかして、慶汰の優しさも、ご先祖様たちに似たのかしら」
 彼女に言われて、慶汰は浦島太郎資料館を思い出す。
 初代浦島ご夫妻は、当時怪しげな木箱を抱えて、意味不明な言動から後ろ指をさされていた浦島太郎を受け入れたのだ。だからこそ、浦島家のルーツとなった。
 アーロドロップに言われて初めてそれに気づいて、慶汰の肩の強ばりが、腑に落ちたように抜けた。
「……そう、かもしれないな」
 きっと血筋なのだ。海来が子供を助けて深い眠りに落ちたのも、そんな海来のためにこれから慶汰が無茶をすることも。それはもう、遺伝子レベルでどうしようもなく仕方がないことなのだ。
「ありがとう、アロップ」
「へ? どうしたのよ急に」
「いや、初めて許せた気がしてさ」
 今までずっと、無自覚ながら心のどこかで憤りがあった。どうして海来がこんな目に遭わなければいけないのか、と。
 海来を躱しきれずに撥ねた、車の運転手を憎むべきか。
 海来の目の前で車道に飛び出した、幼き少年を恨むべきか。
 それとも、後先考えずに飛び出した、海来を責めるべきなのか……。
 ずっと彷徨っていた無自覚な怒りの矛が、血筋という落とし所を見つけて、ようやく収まったのだ。
 アーロドロップは目を丸くして、今までで一番自然な慶汰の微笑と、静かな海来の寝顔を交互に見比べる。そうして何かを察したように、ゆっくり微笑んだ。
「許すって……それはあなた自身のこと?」
 言われて、慶汰は気づく。無自覚な怒りはもうひとつあった。姉の命がかかっているのに、なにもできない自分自身。
 やるせない気持ちに気づいてくれた彼女の顔を見て、慶汰は急激に胸が高まっていることを自覚した。
「ああ。身体が軽くなった気分だよ」
 だからこそ、慶汰の中で覚悟が決まる。
 お人好しは血筋でもいい。だが、アーロドロップを助けたいという想いは、血筋のせいではない。
 慶汰自身の、わがままだ。だから慶汰は、胸を張って姉に告げた。
「姉さん。それじゃあ行ってきます」
 今や、アーロドロップへの協力は、海来を助けるための手続きではなくなっていた。
 もしも万が一、帰ってくることができずとも……それでアーロドロップと、ずっと一緒にいられるならば。
 覚悟の中に矛盾を孕んでいることに、慶汰はまだ、気づけない――。

 一七時三五分――雲ひとつない空の色は、まだ夕方というには早いような青さがあった。だが気温はだいぶ落ち着いて、暮れの気配はすぐ近くまで迫っている。
 慶汰の暮らす鎌倉市から北東に出て、横須賀市。JRの駅も近い大通りには大きなビルやホテルが並び、商業ビルの多くが、一階をコンビニや飲食チェーン店などのテナントに貸し出している。
 そんなビルの群れの中、一階が喫茶店になっているホテルの三階が、〝りゅうぐう〟竣工記念パーティーの会場となっていた。
 そんなホールの扉の前で、慶汰は受付の仕事を手伝っていた。細長い折りたたみ式のテーブルには、純白のテーブルクロスが床ギリギリまで被さっており、受付名簿や筆記具が手元に並ぶ。
「――大人が二名様ですので、参加費は一万円です。……はい、たしかに。それでは、有意義なひとときをお楽しみくださいませ」
 慶汰は笑顔で腰を折って、造船会社の幹部の男性ご一行を見送った。奥様と手をつないだ幼い女の子が、おそるおそる「ばいばい」と慶汰に手を振り、慶汰も手を振り返す。見た目の年齢感的に、ご夫妻のお孫さんだろう。
 パイプ椅子に座り直し、手元の名簿に黄色いマーカーペンを走らせた。いただいた参加費は、手元の缶に納める。
 右隣では、母の渚紗も同じようにゲストを案内していた。
 華やかな白いドレススーツに身を包んだ渚紗の首には、パールのネックレスが巻かれている。
 ご夫婦でいらっしゃった中年の二人組が部屋に入っていくのを見送ると、ひとまず受付待ちの人はいなくなった。
 渚紗が、名簿にチェックをつけながら慶汰に話しかける。
「なんだ、不安がっていた割に、一人でも大丈夫そうじゃない?」
 今までは中学生だったこともあって、設営や片付けのお手伝いしかやらなかった。高校生になってからは、海来のお見舞いのためにアルバイトもやらずにいたので、接客のようなことは今日が初めてなのだ。
「ああ。やってみれば案外できたな。なんだかんだ、姉さんがやってるのを見てたからかもしれないけど」
「海来は、そういうのと相性よかったからね……」
 パーティーだからと明るく振る舞っている渚紗だが、やはり不安なのだろう。笑顔が弱々しく見えて、慶汰はすぐにフォローした。
「大丈夫だって母さん。そう遠くないうちに目を覚ますから」
「え……?」
 慶汰はつい口走ってしまったことに気づいて咳払いする。
「あーほら、毎日声をかけに言ってるだろ? だからきっと大丈夫だって」
「ああ……そうね。励ましてくれてありがとう」
 ふぅ、と息を吐く慶汰の背中が、つん、とつつかれる。透明になったアーロドロップの指だろうと気づいて、気恥ずかしさに体温が上がる。
 ごまかそうと苦笑を漏らす慶汰に、渚紗が声をかけた。
「ねぇ慶汰。最近、なにかあったの?」
「え……?」
「最近、どこか上の空だったじゃない? 海来の誕生日辺りから」
 だとすれば、アロップと出会うようになってからだ。となれば、記憶麻酔術を受けていた頃の言動が、きっと渚紗には違和感として映っていたのだろう。
「悩んでいるなら相談してね。慶汰のお母さんなんだから」
「母さん……」
 今から黙って家出することに、申し訳なさはあるのだ。海来のためとはいえ、心配をかけたくない。
 渚紗の死角になる左側に、慶汰は手を下ろした。すると、アーロドロップの手がそっと握り返してくれて、左耳のそばで彼女が囁く。
「――いいわ、伝えても。あとで記憶麻酔術かけるから」
 慶汰はお礼を告げる代わりに、アーロドロップの手を強く握った。そして、渚紗に向き直る。
「母さん、急なんだけどさ、ちょっと遠出してもいいかな」
「遠出って?」
「……実は、友達から旅行に出かけないかって誘われててさ」
「旅行……どこまでいくの?」
「ええっと、どこだったっけな……帰ったら確認するよ。とにかく、タダで旅館に泊めてもらえることになったんだって。それで一緒にどうかって」
「まあ、それはよかったじゃない」
「だから、その間姉さんのお見舞い、代わりにお願いしてもいいかな……」
 ダメだと言われても、聞き分けのいいフリをして強行する覚悟はできている。それでも、声は小さかった。
「いいよ。でも、ちゃんと連絡入れること」
 それは守れない約束だった。そんな罪悪感すらも、慶汰の覚悟をより強める。
「……ああ。ありがとう、母さん」
 エレベーターが開いて、次の来場客がやってくる。慶汰はすぐに明るい笑顔を浮かべて、声をかけた。

 一八時になって、いよいよパーティーがオープニングを迎えた。
 パーティー会場は元々大きな貸し会議室であり、時に一般企業の研修のために利用されることもあれば、著名人による講演会も開かれるような大部屋だ。だが今夜は、スタイリッシュに華々しい世界が演出されている。
 柔らかいグリーンの絨毯が敷かれ、青みがかった深い黒のカーテンを閉めた部屋を、白い光が鮮やかに照らす。
 壁際二面を使ってL字に並ぶ料理は、特に牛すじの赤ワイン煮込みやナポリタンの艶やかな赤色が際立っていた。こんがりきつね色に揚がったフライドポテトや優しい白のポテトサラダ、理想的な焼き色のベーコンのアスパラ巻きなど、そこにあるだけで絵になる華やかな料理たちが、乾杯への期待を煽る。
 バーカウンターでジュースやワインが注がれたグラスを受け取った人たちは、会場内のあちこちで花のように立つ円形テーブルへと集まっていく。そして、窓際付近の一段高くなったエリアの脇、司会台に立つ港鷹に注目を集めた。
「本日は皆様、お集まりいただきまして誠にありがとうございます。さっそく乾杯といきたいところではございますが、まずは挨拶をさせていただきます――」
 慶汰は渚紗と同じテーブルを囲み、壇上中央に設営されたテーブルを見つめた。これから一時間ほど、食事と談笑の時間があって、その後に行うビンゴゲーム用のセットが並んでいる。景品は、机の下の暗幕の中だ。
 そのビンゴセットの隣には、倉庫のガラスケースから解放された玉手箱が、分厚い藍色の座布団の上に鎮座して、異質な存在感を放っていた。
 一枚の木の板を折って立体化した木箱。浦島太郎を老けさせて、モルネアを取り込んだ恐ろしい木箱。
 港鷹が、改めて潜水調査艇〝りゅうぐう〟建造に関わった企業への感謝を表明し、会場を貸してくれたホテルへのお礼も告げると、マイクを持ってビンゴセットの奥を横切る。
「それでは、玉手箱のお披露目です。皆さんご存じ浦島太郎、かつて南北朝時代に――」
 説明を聞きながら、慶汰の瞳が静かに力んでいく。
 港鷹は、基本的に玉手箱の近くでゲストと食事をしながら談笑をする予定だ。食事は渚紗が港鷹の分まで取り分ける手はずになっているので、基本的に港鷹が玉手箱の側を離れることはない。
 だから狙いは、ビンゴゲームが始まる直前。壇上からゲストが引いて、およそ大抵の人が足を止めてビンゴカードを手に持ち、司会進行を務めるホテルスタッフに注目するその瞬間が、一番玉手箱を奪って逃走する動線を確保しやすいタイミングだ。
 それまでに、いくつかやらなければいけないこともある。
「――今後のさらなるご発展を祈念致しまして、乾杯!」
 乾杯、とグレープジュースの入ったグラスを渚紗たちと合わせた後、慶汰はさっそく玉手箱へと足を向ける。すぐに渚紗から「ご飯は?」と声をかけられるが、「混んでるから後で。母さんは父さんの分も用意しなきゃだろ? 先に行っててくれ」と別行動を促しておく。
 そして今度は、グラスをテーブルに置いた港鷹に声をかけられる。
「慶汰、食事を取りに行っていいんだぞ?」
 渚紗と同じことを言ってくる港鷹に、慶汰は苦笑しながら「混んでるから後で」と答えた。
 そばには透明化したアーロドロップがいるのだ。姿は消せても物理的に触れる以上、人が密集しているところに踏み込むのは騒ぎを起こすリスクが高い。
「マイク置いてくれば?」
 慶汰の一言で、港鷹は「そうだな」と司会台の方へ歩いていった。こうして、玉手箱の側から他の人がいなくなる。
「――アロップ、いいか?」
「ええ」
 慶汰は自らの両手を確認する。すぐに透明化して見えなくなった。そのまま玉手箱に触れる。
 磨かれた木の肌は、とても六〇〇年も存在したとは思えないさらさらの触り心地だ。浦島太郎を老化させ、モルネアを吸い込んだ道具と知った今は、触れた自分すらなにかされてしまうのではないかという恐怖に鳥肌も立つ。
「触れたぞ。行けそうか?」
「オーケー、ありがと慶汰。龍脈術は解けていないし、吸収されるわけでもないって、証明できたわ」
 すぐに慶汰の手が可視化する。誰もその瞬間を見ていなかったようだ。
「つまり、モルネアは」
「龍脈知性体の構造を維持したまま、この中に閉じ込められていることになるわね」
 昨晩、慶汰の部屋でアーロドロップと重ねた議論の果てに、玉手箱の仕組みについて数パターンの予想を立てていた。今、それが確定したのだ。
「玉手箱にも透明になる龍脈術をかけたんだよな?」
「もちろん。でもそっちは案の定吸われたわ。だから、あたしたち二人は透明になったまま、玉手箱だけがまるで宙を飛んで見える形でこの会場を脱出することになるわね」
「ちょっとした怪奇現象だな……」
 昨日の倉庫で、ガラスケースに触れたアーロドロップは、モルネアこそ吸われたものの、透明化が強制的に解けたわけではなかった。だから一番可能性が高いと踏んでいた想定パターン通りに、玉手箱奪取作戦が行われることになる。
「じゃ、しっかり腹ごしらえしておこうぜ」
「ええ。でも食べ過ぎないでよ?」
 マイクを置いて戻ってくる港鷹と入れ替わるようにして、食事を取りに列に並ぶ。アーロドロップは透明化と浮遊の龍脈術を組み合わせて、慶汰の頭上にいるはずだ。そしてやはり、透明になる術を食器にも適用させて、食事を取っていく。
 その間にも、さっそく玉手箱を見ようとゲストが壇上へ集まっていた。さすがに全員とはいかないため、順番待ちのように近くのテーブルに陣取りながら、楽しそうに談笑する人たちも多い。
 慶汰が元いたテーブルに戻ると、きっちりとブラックスーツを着こなした五十代くらいの男性と目が合う。
「こんばんは。君はたしか、浦島慶汰君だね」
 日に焼けた肌と恰幅のいい体格で、いつもピンと胸を張った姿勢を崩さないため、少し圧のある相手だ。だが、慶汰にとっては子供の頃からよくしてくれているおじさんみたいな印象が強い。
「はい、お久しぶりです。神保さんはたしか、海上保安庁の……」
 アーロドロップにさり気なく説明するためにも、慶汰はそこで言葉を区切った。
「変わらず一等海上保安監だよ。今日はお姉さんは来ていないのかい? たしか、今年で大学二年生、だったかな」
「……姉は今、半年前に事故で意識不明のまま入院中でして」
 笑顔を崩さないよう努めて伝える。神保は一瞬だけ目を見開いて喉を重たく鳴らしたが、すぐに冷静さを取り戻したようだ。
「そうか、申し訳ない。あの元気な姿をまた見られることを願うよ」
「ありがとうございます。それで、お仕事の方は順調ですか?」
 慶汰の脳裏には、海来の振る舞いが強くイメージできていた。相手の近況を伺い、適度に相槌を打つ――その言葉選びやタイミングの塩梅がうまく想像できないのだが、今の話題の振り方はよかったと、慶汰自身そう思う。
「ああ。それが最近、奇妙なことがあってね。三日前のことなんだが」
「三日前……というと、七月二〇日ですか」
 海来の誕生日だ。
「正体不明の物体が、太平洋沖から本土へ接近してきてね」
「そんな。正体不明って……外国の潜水艦とかですか?」
「いや、それが対応した保安官の言葉を信じるなら、人間大のサイズ感らしいんだ。ただし速度は六〇ノット。イメージしにくいかもしれないけれど、スピード感で言えば魚雷みたいなものさ。……まあそのスピードのおかげで検知できたんだが」
「七月二〇日の太平洋沖から魚雷のスピードで接近する人型……」
 慶汰の焦点が遠くなる。魚雷のスピードがどれくらい速いかは慶汰も知らないが、心当たりは一つしかない。
 案の定、慶汰のスーツの背中が、ぎゅっと握られた。振り向かずともアーロドロップの手だとわかる。小刻みに震えているところからして、彼女も自分のことではないかと自覚したのだろう。
「緊急特定班を作って捜索中なんだが、不甲斐ないことに今も見つかってないんだ。今では新種の生き物なんじゃないかという説が有力でね。まあそんなのんきなことを言っていられる場合でもないんだけど……今のところ関連していそうな事件も騒ぎも起きていないから、なんともね」
 神保は丈夫そうな顎を撫でて、好奇心に満ちた目で言っていた。
「なるほど……専門的な話はよくわかりませんが、ある意味新種の生き物ですよ、きっと」
 海上保安庁を大騒ぎさせている原因が真後ろにいるので、白々しい返事になってしまったが、神保は特に気にするそぶりを見せなかった。

 やがて神保が他の人と挨拶をしにテーブルを離れたタイミングで、慶汰も作戦の最終確認を行う。といっても、トイレに行くフリをして廊下の状況チェックをするくらいだ。
「なあアロップ。神保さんはああ言ってたけど、海保にソナー探知されていたことは気づいていたのか?」
「初耳よ……! 新種の生き物で悪かったわね……!」
 姿を見せたアーロドロップは、青ざめた顔で冷や汗をたくさんかいていた。
「ハハ……まあ今となっては、無事に出会えてなによりだけどな」
 いつの間にかすっかり美しい夜色に染まった空が窓の外に見える。ここを脱出経路にしようとこっそり鍵を開け、アーロドロップが再び姿を消したのを確認して、部屋に戻った。
 それから食事を堪能したり、玉手箱付近でゲストと会話を弾ませている港鷹の様子を窺ったりして、待つことしばらく。
 いよいよ、作戦の時が訪れた。
「――用意はいいな?」
 慶汰は、部屋の隅に移動して、靴紐を結び直すようにしゃがみ込む。するとアーロドロップの龍脈術で姿が見えなくなった。周辺の人は、ほとんどが食事をしていなかったがおしゃべりに夢中で、誰も慶汰が消えたことには気づいていない。
 そしてアーロドロップからも、慶汰の姿が見えなくなっている。アーロドロップは移動経路を確保するため別行動だ。
 慶汰は人の合間を縫って、玉手箱に近づいた。もちろん誰も気づけないまま、窓際に立つ。背中がカーテンに触れて少し揺れた時は冷や汗をかいたが、誰にも気づかれなかったのでセーフだ。
 港鷹が玉手箱周辺の人たちに「そろそろビンゴ大会を始めますので、お席の方へ」と促し、港鷹もスタッフに声をかけに行くべく司会台の方へ。
 その一瞬の隙を突いて、慶汰は玉手箱に駆けより、両手でしっかり挟んで持ち上げた。
「あれ? ばぁば、たまてばこ!」
 最初に気づいたのは、先ほど慶汰が受付を担当した、幼き少女だった。
「玉手箱がどうし――えええええ!?」
 お婆さんの叫びが合図となって、会場中の視線が集まる。
 周囲からはまるでポルターガイストのように玉手箱が宙に浮いているように見えるはずだ。アーロドロップはそれを合図に、玉手箱の位置から慶汰の位置を推測し、慶汰を天井まで浮遊させる。こうなると慶汰はアーロドロップに操られるままの透明人形だ。
「わ、なになに!?」
「玉手箱が飛んでる!」
「うそ!? ホントだー!?」
 慶汰は一直線に扉の方へ飛ばされる。
 会場中の人たちが、戸惑いの声をあげながらもスマートフォンのカメラを向けてくる光景には、なんとか悲鳴を堪えた。
 玉手箱には龍脈術が効かないため、慶汰が手放すわけにはいかない。
 入口付近に潜伏していたアーロドロップが扉を開放し、慶汰は速度を落とすことなく廊下へ飛び出す。
 打ち合わせだろうか、廊下で話していたスタッフ二人の頭上を通過し、先ほど確認した窓へ向かう。アーロドロップが窓を開けようとしているのか、一旦慶汰は空中に制止した。後ろから玉手箱を追いかけてくる人たちの声に肝を冷やしながら、慶汰は窓を見つめる。すぐに窓が開いて、慶汰は再び突き動かされるようにして窓の外へと飛び出した。
 三階から飛び出した景色は、他の建物が邪魔で閉鎖的だった。その割に地面は遠く、感触のない龍脈の膜だけが頼りとなると、恐怖に肝も冷える。
 ただ、周辺の建物より高い位置までふわりと上昇すると、慶汰の中で恐怖より感動や興奮が勝った。
 駅周辺には高いビル、少し遠くには大きなマンションの灯りが輝く。光の密度や輪郭から、商業施設の賑わうエリアや住宅街が一望できた。
 夜空の月明かりは薄く、雲の形もおぼろげなのに、まだまだ眠らない街は大通りや線路を煌々と照らす。
「ホントに俺たち、空飛んでるぞ!」
「テンション上げるのはいいけど慶汰、玉手箱落とさないでよ!?」
「ああ! わかってるよ!」
 絶対に帰ってくる。その心意気はあれど、やはり少し不安なのだ。そんな不安を閉じ込めるように、慶汰は玉手箱を力強く抱いた。

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