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竜宮城からの招待状(パスポート) 3話 うらしまたろうの歴史

 スーツを新調した翌日。慶汰は日課の姉へのお見舞いを終えた後、浦島太郎資料館を目指して電車に乗った。初心に返って、浦島家の研究している浦島太郎のことをもう一度調べ直すことが目的だ。
 そう決意して最寄り駅で下車し、資料館に続く道を歩いていると、脇道のあるところで突然足になにかが引っかかる。
「うお!?」
「きゃっ!?」
 バランスを崩した慶汰は、咄嗟になにかを掴んだ。透明な、肌触りのいい布の感触。続けて胸にのしかかってくる確かな重み。
 右の足首がビリッと痛んで、全身が強張る。背中から落ちて衝撃、間髪入れずに胴体に強烈なプレス。見えない重いものが慶汰を圧し潰す。
「ごふぅ!?」
 まるで空気に質量が宿ったような重みだ。見えもしないのに、その感触から人ではないかと直感が訴える。慶汰の胸には小ぶりな人の手の形をした感触が二つ。そこから腹部にかけて、人の腕であることを示すように、相応の重みがある。
 しかし、視覚的にはなにもない。広がる空はどことなく歪んでいて、目には見えないほど透き通った分厚いガラスがあるかのようだ。
「いったい、なんだ……?」
 得体の知れない恐怖もあったが、それ以上に、なにか大切なことを忘れている、そんな焦燥感の方が強かった。
「あ、あなたは――っ」
 耳元で戸惑った女の子の声が聞こえた瞬間、すっかり忘れていた記憶が蘇る。岬でのこと。鎌倉駅でのこと。そして記憶麻酔術という言葉を思い出した瞬間、確信めいた高揚感が勝って、自然と頬が緩んだ。
「大丈夫か、アーちゃん?」
「……え、ええ」
 声に合わせて彼女の吐息が慶汰の口元を撫でて、急激に全身が熱くなる。もしかすると今、二人の顔はものすごく近くにあるのかもしれない。
 慶汰はなんとか平静を装うつもりで、早口に訴えた。
「なあ、どいてくれると助かるんだが」
「っ……! そ、そうね、ごめんなさい」
 体重のかけ方的に、車道側にどいたのだろう。そして慶汰の予想と多少の誤差がありつつ、和装姫様が出現する。木の下駄、青い着物、濃い青の帯と金の帯紐、水色の羽織、宙に浮く白いストール。
 慶汰も上半身だけ起こして、やけに縮こまっている彼女を見上げた。
「どこか怪我したか? 手か足、捻ってないか?」
 実際慶汰は右足首がズキズキしている。彼女にもなにかあったかもしれない。
「へっ? いや、怪我なんてあたし」
 そうは言うが、少女の表情に余裕はなさそうに見えた。
「じゃあなんでそんな顔してるんだ」
「ちょっとびっくりしただけよ!」
「そっか、ならよかった」
 眉を跳ね上げて元気に叫ぶあたり、大丈夫なのだろう。微笑みかけると、彼女はおずおずと俺に手を差し伸べてきた。
「……ん。立てる?」
 右足の痛みが引かない。もう少し座っていたかったが、心配させるのもよくないと思い、慶汰は彼女の手を取った。
「おお、ありがとう」
 全体重を左足に任せて、少女に引っ張ってもらって立ち上がる。そんなに長く倒れていたはずではないのに、背中がアスファルトの熱をしっかりと帯びている。
「あたしの方こそ、ごめんなさい。じゃあね」
 気まずいと思ったのか、彼女はすぐに姿を消してしまった。瞬間、海で出会った時のように、慶汰の視界で小さな光が明滅して、一瞬だけ目が眩む。
 慶汰は恨みがましく目を細め、しかしすぐに溜息を吐いた。風に乗った上品な残り香が方向を教えてくれたが、この足では追えない。
 潔く諦めておとなしく痛みが引くのを待とうと決めて、慶汰は塀に背中を預け、右足をゆっくり持ち上げた。足首が見えるように靴下を下ろす。
 ……患部が熱い。腫れてはいない……いや、これからか、と予想した刹那。
「怪我したんならそう言いなさいよね!」
「どわっ!?」
 慶汰の目の前に、目をつり上げた和装王女様が再出現した。袖口から銀の鉄扇を出して、その側面を慶汰の足首に添える。
「つめてっ!?」
「文句言わないの」
 その声は冷たかったが、患部を真剣に見つめる瞳はとても温かった。
「……どう? まだ痛む?」
 みるみる痛みが引いていく。どうやらこの少女、治癒魔法も使えるらしい。多少痛みと違和感は残っているが、普通の歩行に支障はなさそうだ。
「ああ、完全に治ったみたいだ、ありがと――」
 ずい、と彼女の顔が慶汰に迫る。圧が強い。
「そんなわけないでしょう? 強がらないで」
「……ハイ」
 さすがに魔法の使い手だけあって、効力まで熟知しているようだ。敵わないな、と慶汰は頬をかく。
「で、あなたどこ行くつもりだったのよ」
「どこって……なんで?」
「怪我させたお詫びに連れてってあげるって言ってんの。歩けるようにしたとはいえ、悪化しないとも限らないわ」
「ずいぶん面倒見がいいんだな?」
「普通でしょ」
 照れるわけでも誇るわけでもなく、平然と言ってのける彼女の姿が、元気だった頃の海来と重なった。
 海来もそうなのだ。重たい荷物を背負った見知らぬお婆さんになんの躊躇もなく声をかけられるタイプ。その優しさが過ぎたせいで、海来は……。
「ぼーっとしてないで、どこに行きたいのか教えなさいよ」
 慶汰はハッとして、素直に答える。
「あ、ああ……この道をまっすぐ行けばすぐの、浦島太郎資料館だけど」
 そう伝えると、彼女は大げさなくらいに喉を鳴らした。
「なっ……!」
〈あらら、奇遇だねぇ。ボクたちと同じ目的地だ〉
 電話越しの幼げな音声が聞こえてはっとする。
「うおっ……そういえばいたな、姿の見えないもう一人……!」
〈一人というか一つというか? モルネアだよ~、よろしくね?〉
「そういえばちゃんと自己紹介してなかったな。俺は浦島慶汰。で、モルネアは今どこにいるんだ?」
 慶汰は辺りを観察しながら尋ねた。彼女の横にも後ろにも気配はない。地面に三人目の影を探すが見当たらない。
〈しいて言うならネイルコア?〉
「ネイルコア?」
「はぁ……これのことよ」
 溜息をついた彼女が、右手の爪を見せてきた。その人差し指の爪だけに、サファイアのように輝くネイルがある。
〈でもネイルコアは仮宿ってだけで、本体ってわけでもないんだよね。ボク、実体がないから〉
 慶汰の眉間に皺が寄る。なにを言われているのかわからない。
「実体がない……? 幽霊かなにかで取り憑いてるってことか……?」
〈あはっ、幽霊なんて言われたのは初めてかなぁ! でも面白いしそれでいいよ〉
「いや面白いからって……ちゃんと説明してくれないのか?」
「おいそれと教えるわけがないでしょ。それよりさっさと行くわよ」
 まだ完全に信用されているわけではないようだ。なぜなにどうしてと質問を重ねても、簡単には答えてもらえそうにない。
 コツコツと木の下駄を鳴らす王女様と並んで歩く。しばらく、お互い無言だった。
 その間慶汰は、考えることに集中していた。彼女のことについて。
 昨日までは闇雲に浦島という名字を持つ人たちに当たっていた様子。それが今日になって浦島太郎資料館に目をつけた……。
 消える魔法に浮く魔法。不可視の銃撃や治癒魔法だって自由自在。おまけに幽霊染みた謎の存在までいる。このあたりの理屈はさっぱりだ。
 だが、昨日の鎌倉駅騒ぎの時、囮になろうとした慶汰を見捨てなかったこと、さっき怪我をした慶汰を介抱してくれたこと――悪い奴ではないのだろう。
 確信も確証もない。しかし、不思議と自信はあった。
 もしも、人が奇跡を起こせるのだとしたら――!
 一つの仮説が立ち上がった。意識が思考の深い部分から浮かんできて、ふと、向けられていた眼差しに気づく。
「……えっと、なにか?」
「別に。ただ、なにを考えているのかしら、と思っただけよ」
「ああ……どうやってアーちゃんに玉手箱を渡しつつ他のすべてを丸く収めようか……と」
 瞬間、彼女の表情が強張った。だが慶汰は気にせず続ける。
「俺の一存で『はいどうぞ』って渡せる代物じゃないんだよなぁ。でもアーちゃんにはそれが必要らしい。それを知ってしまった以上、なんとかしてあげたいんだけど……。必要なんだよな? 玉手箱」
 慶汰の確認に対して、彼女はうんともすんとも言わず、質問で返した。
「ま、待ちなさい……! なんであたしが玉手箱を必要としていると思ったの?」
「ん、アーちゃんが玉手箱を求める理由、か……ふむ」
 考えをまとめながら歩いているうちに、浦島太郎資料館に着いてしまった。慶汰は少女たちにあれがそうだと示しながら、答えを出す。
「二割くらい勘なんだけど――アーちゃんが竜宮城に帰るため、かな?」
「なっ……!? なんでそれを!?」
 相当驚かせてしまったのか、鉄扇を向けられてしまった。
 慶汰は慌てて諫める。
「まあまあ! 浦島太郎についてある程度知ってりゃ自然とわかるんだって! 今からそれを説明するから! どうせ俺の右足、まだ様子見ないとまずいんだろ?」
 彼女は、ふてくされたような顔で慶汰をじろりと見ながら、鉄扇をしまった。
「ねぇモルネア、なんかこの人変よッ!」
〈や、アロップも十分そっち側な気がするけど〉
 なにやらひどい言われような気もするが、慶汰はツッコミを入れることを忘れて、胸のつかえが取れたことを喜んでいた。
 ――アロップ……そうそう、この子の名前、アーロドロップちゃんだ!

 浦島太郎資料館は、広々とした平屋建ての建物だ。浦島太郎に関する資料はもちろん、喫茶竜宮城という小規模のカフェも併設されている。
「……あたしの分の入館料まで払ってもらっちゃって悪いわね」
「いや、透明化する魔法で不法侵入するのを見過ごすわけにもいかないし」
「そう? ありがと」
 慶汰が堂々としていたからだろうか。受付のお姉さんからは奇異の目を向けられたものの、身元を確認されるようなことにはならなかった。それどころか、アーロドロップから容赦なく記憶麻酔術を浴びせられて、わけもわからず両眼を覆っていた。
 ただ顔を見られただけで記憶麻酔術なんてやりすぎではないか、と思った慶汰だが、自身もこの後別れ際にもう一度やられるのかと思うと、文句をつけるのも億劫になった。
「とにかく、まずは日本国民にとっての浦島太郎について学んでもらわないとな」
 入ってすぐのところに、ひらがなで書かれた一番オーソドックスな絵本が一冊、読めるように置かれている。もちろん浦島太郎の絵本だ。
「またずいぶんとほのぼのした本ね」
「子供向けだからなぁ。というか、浦島太郎が竜宮城にいる時のことって、そっちじゃどう伝わっているんだ?」
 雑談気分のつもりで振ったのだが、アーロドロップはげんなりと肩を落とした。
「そんなもの、ほとんどなかったわよ」
〈あればもう少し早くここに辿り着いていたかもねぇ〉
「それもそうか。なら、ここからちゃんと説明しておいた方がいいかもな」
 説明といっても、一番オーソドックスな内容の絵本について説明して終わりだ。もし質問が来たら答えればいいだろう。
 アーロドロップは黙々と読み始める。こころなしか目が輝いているのは、好奇心からだろうか。
 内容は至極基本的なものだ。
 遙か大昔、浦島太郎という少年が、いじめっ子から亀を助ける。
 数日後、亀を助けたお礼に、と、浦島太郎は竜宮城に招待された。
 そこで乙姫と出会い、竜宮城での夢のような生活を、時間を忘れて楽しむ。
 やがて数年の時が過ぎ、故郷が恋しくなった浦島太郎は、帰ると言い出す。
 乙姫様から玉手箱を貰って帰ってくると、故郷では数百年という年月が経過していた。
 浦島太郎が玉手箱を開けると、お爺さんになってしまった。
 おしまい。
「ふうん? 地上人が生身で竜宮城に入れたのは亀の仕業としても、箱を開けた途端にいきなりお爺さん……ねぇ」
 じとー。アーロドロップの呆れ半分の疑惑に満ちた視線が、絵本を撫でていた。
「……ありえない、のか?」
「そうねぇ、これはいくらなんでも説明がつかない……いえ、説明づけようとすれば説明つくんでしょうけど」
〈派手に盛ってるってやつだよぅ。自慢話で数字の桁繰り上げる人、周りにいなーい?〉
「そういう感覚なのか……」
 どうにもうさんくさいと言いたいらしい。魔法が使える奴らに言われてもな、と思った慶汰だが、同時に万能ではないことも思い出す。
 透明化魔法は影や音までは消せず、記憶を消す魔法も直接声を聞くか姿を見れば全て思い出し、治癒魔法は捻挫を即座に完治させるほどではない……魔法にも限度はあるのだろう。人を急激に老化させることも、彼女たちにとってもあり得ないことなのかもしれない。
「というか、俺からすれば、亀に伝言役が務まるって方がリアリティないんだが」
「生物の使役に関しては、現代より古代の方が長けていたらしいわ。どうもこっちの世界だって、似たような感じらしいし」
 そう言って開いてみせられたのは、浦島太郎が竜宮城から日本に帰ってきたシーンだ。背景には豪華な荷車を引く牛車の絵がある。たしかに、昔は牛車や馬車だっただろうが、今は自動車だ。
「へぇ。絵本もあながち的外れでもないのか?」
 あくまでも史実を子供向けの読み物として編纂したものだからフィクションも多いだろう……と高を括っていただけに、気づかされることがあって驚きだ。
 心の底から感心しつつ、次のコーナーへ。
「で、こっからが本格的な資料だな」
 鍵のかかった大きなガラスケースには、黄ばんだ古い紙に大昔の文字が書かれた書物や、おそらくは乙姫様を描いたとおぼしき掛け軸などが展示されていた。
「それに、史実とまったく違う、因果関係が不明なものまで存在している」
 古い言葉で書かれた物については、現代語訳された文章が用意されている。
 浦島太郎の名前が浦島子だったり、亀が出てこなかったりするものもあれば、竜宮城ではない別のところへ行ってそのまま帰ってこないパターンまである。
 要するに、史実すら諸説ある、ということだ。
「なにからなにまで違うじゃないの……」
「紹介しておいてなんだけど、あまり真に受けるなよ。竜宮城中国説、竜宮城宇宙説、竜宮城は空を移動している説、浦島太郎は竜宮城に行ったきり帰ってこなかった説……どれも他のと両立しない話ばかりだからな」
 慶汰の補足を聞いて、アーロドロップの頬が微妙に引きつった。
〈アロップどうする? これ全部記録しとく?〉
「……そうね。信憑性がないとしても、貴重なデータであることに変わりはないし。情報、ごっちゃにならないようにしておいてよね」
〈りょーかーい〉
 慶汰は咄嗟に周囲に人がいないのを確認して、二人に手を向ける。
「ちょ、記録って……館内は原則撮影禁止で……」
〈でもボクがまるっと暗記する分にはいいんでしょ~?〉
「それはまあ……?」
〈そういうことなら問題なーし。次いってみよ~〉

 歴史としての浦島太郎に関するコーナー。
 ガラスケースの中には、いずれも年代物の資料ばかりがずらりと並ぶ。
 中でも一番インパクトがあるのが、一枚の絵画だろう。多くの民衆たちがパニックを起こしたような光景が描かれ、その中心に死亡した老人と煙を吹き出す箱が描かれている。
「ここが、歴史上正しいとされている〝史実〟の浦島太郎だ」
 最初に示したのは、柱に貼り付けられていた年表だ。日本史の代表的な出来事が並ぶ、歴史の教科書にも載っているもの。
「西暦一三六七年のところ。浦島太郎、鎌倉に漂流ってあるだろ。それが、竜宮城から浦島太郎が帰ってきたとされるタイミングだ」
「戦い、合戦、一揆、乱……ねぇ」
〈とにかく物騒な時代だったってことでしょー〉
「時代背景のまとめ方……まあいいか。とにかく、この絵画を見てくれれば察せると思う」
 老人の死体と煙を噴く怪しげな箱、戸惑う民衆。今晩夢に出てきそうな恐ろしい絵を見たアーロドロップは、すぐに勘づいたようだ。
「まさかこの人が、浦島太郎……?」
「と、言われている。――一人の若者が箱を開けたら突然老化して死亡――この絵画がその瞬間を誇張なく描いたものだとするならば、この超常現象を目撃した人は多数いたはず」
 実際、そこから当時の浦島太郎の足取りが調べられた。
「次の資料に書いてある通り、浦島太郎は自分の家を探して多くの人たちに尋ね回っていた、という証言が多数上がっているそうだ」
 浦島太郎は、自らの自宅を尋ね回る中で、人々に一通りの事情を説明していた。一連の会話から『墾田永年私財の法が制定された当時十五歳』と話していたことが判明する。
 その数日後には亀を助け、さらにその数日後に、亀に招待されて竜宮城へ向かった――とも。
「西暦に置き換えると、七四三年に十五歳だったということになるんだ。そして家を探し回った年は一三六七年。年齢は二十歳」
 それがもし本当なら、家の場所なんてわからなくて当然だ。
 五年で六〇〇年以上も時を超えている。道と街並みどころか、地名や地形すらまったく別のものになっていただろう。
「そっか、外界だと六〇〇年前のことになるのね……」
 アーロドロップが意味深に呟いた。
「そっちじゃ違うのか?」
「明確な記録がなかったから」
 なるほど、と納得して、慶汰は説明に戻った。
「発言の真偽はともかく、尋ね回るうちに、浦島太郎は南北朝時代で浦島の名字を持つ人の家に行き着いた。それから数日後、浦島太郎は玉手箱を開けた」
「絵本じゃ乙姫様から開けるなって注意されていたところよね。リアルは言われなかったのかしら」
「さあな。ただ当時の浦島太郎からすれば、開ける前は謝礼になりそうなものが入ってると思ったんじゃないか? あるいは、時間が経過して中身への好奇心が勝ってしまったか」
「それで老化して死亡なんて、さすがにちょっと可哀想ね」
 アーロドロップは、絵画の老人の死体に哀れみの視線を向けていた。
 慶汰も同感だと頷いて、話を進める。
「とにかく、どれだけありえないことでも事実は事実だ。若い男がおかしな箱を開けたら一瞬で老人の死体になった。極論、浦島太郎の発言がすべて嘘だとしても、この一点だけは揺るがない」
 浦島太郎のタイムスリップ。竜宮城と乙姫の存在。このあたりは、浦島太郎がそう言っていただけのこと。年齢も、竜宮城を訪れた経緯も、氏名すらも、裏付けはない。
 だが、玉手箱と死体は遺る。
「どんなにありえないことでも、結果がある以上は原因がある。問題は、どうして玉手箱を開くと老化するのかがわからないことなんだが……とにかくだ。老化現象の起こし方がわかれば、応用して医療などの分野に活かせるかもしれない」
「へえ。老化現象を、医療分野に応用……面白いアプローチね」
 興味深いわ、と、妙なところでアーロドロップの碧眼が輝く。なにが彼女の琴線に触れたのかは知らないが、慶汰は説明を続けた。
「それでなくても、突然人が老化するなんて、怖くて放っておけないだろう? 当時それを目の当たりにした人たちなら、なおさら」
 こうして、老化現象の研究が始まる。
 とっかかりは、残された玉手箱と遺体、そして生前の浦島太郎の発言だけ。浦島太郎の話にちゃんと耳を傾けていたのは、身寄りのない彼の面倒をみていた当時の浦島一家くらいだった。
 結局、調査は難航した。当然だ。玉手箱は材料も加工方法も不明。再現実験ももれなく失敗。作った人を探そうにも、浦島太郎曰く竜宮城――海の底へ行けなければ確かめようがなく、行く術はなかった。
 手立てがない以上成果も上がらず、躍起になっていた人たちもやる気を失う。
 やがて老化現象に対する恐怖も薄れていき、普通なら研究は自然消滅するだろう。
「しかし、浦島一家は諦めなかった。その強い意思は子孫に託され――今も受け継がれているんだ」
 今では深海調査を事業とする企業を立ち上げてまで、地球の環境研究の傍ら、竜宮城発見を夢見て活動しているのだ。それが慶汰の家系である。
「……まったく、よくやるわ」
 浦島家の血に流れる執念を感じたのか、それとは別に思うところがあったのか。アーロドロップの表情は、どこか憂いを帯びているように見えた。
「とまあ、これが俺の知る限りの浦島太郎の歴史だよ。――これだけわかっていれば、だいたいそっちの抱えている事情も見えてくる」

 喫茶竜宮城。絵本に描かれそうな竜宮城をモチーフにした喫茶店で、資料館の片隅に併設されている。二人がけテーブルばかりが七セットほど並ぶ店内には、慶汰たちしか客がいなかった。
「で? いい加減教えなさいよ。さっきの資料で、どうしてあたしの現状がわかるのよ?」
 アーロドロップは慶汰を睨めつけながらストローに口をつけると、おいしい、と目を丸くした。オレンジジュースが気に入ったようである。
「まず前提として、これまで聞いたアロップちゃんたちの発言をすべて信じるものとする。すると、自ずと推測できる」
「ごほっごほっ!」
 盛大にむせて、アーロドロップが目を眇める。
「……ちょっと待って。あなたねえ、いつの間にアーちゃん呼びから変わってんのよ」
「あれ、気に入ってたのか?」
「んなっ……! とにかく、ちゃん付けはやめて」
 アーロドロップは唇を尖らせたものの、初対面の時のように鉄扇を向けてくることはなかった。少しずつ警戒が解けてきているみたいだ、と、つい慶汰の頬が緩む。
「じゃあアロップ、俺のことも名前で呼んでくれ。慶汰な、慶汰」
 浦島呼びでもよいのだが、後のことを考えると最初から名前で呼ばせた方が都合がいい。既に慶汰の脳内では、彼女を浦島さんが何人も集まるところに誘うイメージまで浮かんでいた。
「わかったわ。とにかく慶汰、聞かせてもらおうじゃないのよ。その推測とやらを」
 慶汰は頷いて、早速状況を整理した。
「一つ。玉手箱を浦島太郎が持ち帰ったのは、今から六〇〇年以上前。仮に玉手箱が竜宮城にとって必要なものだとすれば、もっと大昔の時代に取り戻しに来たはずだ。なのになぜ、六〇〇年も経過した今になってアロップが来たのか」
 もちろん、浦島太郎がタイムスリップしているのだ。本当に地上と竜宮城で時間の流れが違うなら、竜宮城側からすればそう時間が経っていないのかもしれない。
 しかし、アーロドロップは昨日まで、ウラシマと名乗る人たちに手当たり次第にアタックしていた。また、浦島太郎資料館に目をつけたのは今日になってのこと。ここから、手がかりをロクに持っていないことが推察できる。
 そして「風化して歴史の墓に埋葬されたとばかり思っていた」とも言っていた。すると、竜宮城でも遙か昔に失われたことになっているのだ。ならば、どうして今さら取りに来たのだろうか。
「二つ。アロップが乙姫第二王女と名乗った時、モルネアが元と補足した。事情は知らないが、とにかくアロップは、王族だった時期があって、少なくとも今はその身分を剥奪されている」
「ぐぬぬっ……!」
 テーブルの下、スニーカーのつま先が、木の下駄の歯で踏みつけられた。
「いたっ!? わ、悪かったって! でも図星――ったぁ!?」
 咄嗟に足を引っ込めれば、今度は向こう脛をげしげしと蹴ってくる。
「いたたっ……。とにかく、これは俺の勘だけど、浦島一族の末裔に用があることと、王族の身分を剥奪されていること――この二つの事実は、密接に関係しているんじゃないか? たとえば、王族の身分を取り戻したければ玉手箱を取ってこい、と言われた、みたいな。あるいは、王族だと証明するために玉手箱を取ってこい、かもしれないが」
 学校で悪ふざけをして窓ガラスを割ったら、反省文を書かなければいけないように。あるいは、話を聞かれたくない人を追い出すために、適当な用事を頼むかのように。
 アーロドロップは、身分を剥奪され、玉手箱を取りに来たのではないだろうか。
「そう考えると、何百年もそっち側が玉手箱を放置していたことと、アロップが事実上単独で動いていることにも、一応の説明がつく」
 遙か昔の人間の末裔を……それもろくな手がかりのない人を捜索するのに、たった一人しか人手を用意しないなんて、探す気がないと言っているようなものだ。なのにその一人が元王族となれば、そこに理由がない方がおかしい。
「つまり竜宮城側は、浦島太郎の末裔に用があってアロップを派遣したんじゃない。それはあくまでも名目なんだ。アロップから身分を剥奪するための名目。あるいは、アロップが身分を取り戻すための名目か」
 慶汰は一呼吸置いて、断言した。
「そういう背景があるとして、アロップは何用で浦島太郎の末裔を探しているのか――一番シンプルなのは、玉手箱を持ち帰ることが、試練のような何かの達成条件だからだ。というか、それ以外に想像がつかない」
 だが、アーロドロップの下がった目尻が、答え合わせをしてくれた。
「ええ。なにからなにまで慶汰の言う通り。――あたし、追放されたの」

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