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竜宮城からの招待状(パスポート) 2話 浦島一家の末裔

 翌朝も猛暑日だった。じっとりとまとわりつくような寝汗をシャワーで流して、ある程度夏休みの宿題に手をつけながら時間を潰し、慶汰は一人、家を出る。
 家から鎌倉駅へと自転車で向かい、電車とバスを乗り継いで、都合一時間半の時間をかけて、大きな総合病院の入院病棟へと足を運んだ。
 目的の病室は一人部屋だ。洒落っ気のないベッドに若い女の人が横たわっていて、生命維持に必要な様々なものが残酷に繋がれている。
 血の繋がった家族だというのに、部屋に入った直後に見る姉の姿は、まったく無縁な別人のような雰囲気を覚える。その感覚が、慶汰は無性に嫌だった。
 無機質な心電図の音が、無慈悲に時間を刻む。
 浦島海来。慶汰より三つ年上の長女。本当なら、今年で大学二年生……一番楽しい時間を謳歌していたはずだった。
 慶汰は薄い掛け布団の中から海来の右手を少しだけ引っ張り出して、握った。
「おはよう。姉さん。今日もよく晴れてるよ。暑すぎて雨が降ってほしいくらいだ」
 返事はない。相槌もない。あたりまえだ。
 それでも、声をかけ続けていれば、いつか目を覚ましてくれるかもしれない。
 そんな希望に縋るように、慶汰は毎日一時間、姉の側にいることを自らの責務としていた。学校がある日は放課後すぐに来て、一時間。予定がない休日は面会時間の頭から来て、一時間。
 本当はもっと長く居たいというのが慶汰の本心だ。
 実際、まだ桜も咲いていない頃は、できるだけ面会時間を姉の病室で宿題をしたり話しかけたりして過ごしていた。
 だが、まるで取り憑かれたようにこの病室に入り浸る慶汰の姿に、まず母親がまいった。慶汰までいなくなってしまうのではないかと、ふとした拍子に泣き出すようになってしまったのだ。
 これ以上、家族が壊れないようにと父から言いつけられたのが、面会時間は一日一時間までというルールである。そのおかげか、今では母も持ち直し、海来が欠けた分だけ静かな時間と向き合えるようになった。
「ドライブ日和だと思う。クーラーガンガンにしてさ。俺も免許取れたら、家から駅までチャリ漕がなくてすむのに」
 海来がこんな状態になったのは、交通事故で車に撥ねられたからだ。見ず知らずの幼き少年が道に飛び出し、それを助けようとして目覚めることがなくなった。
 その頃、慶汰は中学校で科学部の部活動中でありその場に居合わせなかったが、同じ日の夕方には熱心に感謝を伝えようとする幼き少年とその家族から、優しく勇敢な海来への感謝を聞いている。
 脳に強い衝撃がかかったのだろう。命に別状こそなかったが、目を覚ますこともなくなった。今となっては海来の生命力だけが頼りだ。
「昨日は、なにがあったんだっけな。そう、いつものようにここを出た後、ちょっと岬に行ったんだ。で……あれ?」
 釣竿を振ったのは覚えている。だが、その後どうしたのかが思い出せない。
 慶汰はいつからか、海来の病室を出てからまた翌日見舞いに来るまでにあったことを語り聞かせるのが習慣になっていた。昨日のことを思い出すことに苦労するなんて、そう滅多に起きるわけがないとはっきりわかっている。にもかかわらず、思い出せない。
「アーモンドドロップ……いや、なんか違うな、コーヒードリップ……?」
 なにか記憶を思い出すとっかかりを脳に求めると、どうにもよくわからない単語が出てきて、慶汰は余計に混乱した。昨日はアーモンド味の飴なんて食べていないしコーヒーも飲んでいない。そもそもアーモンド味のドロップなんて美味しそうには思えない。
「え~と、まあそんなことはどうでもいいんだ。もしかしたら父さんから聞いたのかもしれないけれど、今度、パーティーがあるんだって。三日後だって言っていたかな。俺さ、この半年で身長五センチも伸びたんだよ。だから今日は父さんが新しいスーツを買ってくれるんだ」
 慶汰の家は、長く続いている深海調査会社の社長だ。仕事内容が仕事内容のため、道行く人々に尋ねても知っていると答える人はまずいないのだが、それでも会社は会社。社長は社長。慶汰は御曹司であり、海来は社長令嬢なのだ。
「俺ももう高校生になったし……どうすれば姉さんみたいにもっとかっこよく話せるようになれるのかな」
 会社の家族も参加可能なパーティーが開かれると、姉弟揃って大人びたスーツやドレスを身に纏い、両親にくっついて美味しいものを食べに行っていた。海来の外見には華がある。そこに活発さがプラスの魅力となって、パーティーではいつだって海来の周りには人が集まっていた。慶汰もいつもそばにくっついていたものだ。普段は会話に困っても海来が助け船を出してくれたが、今回のパーティーではそれがない。
 姉のいないパーティーは今回が初めてなので不安は大きいが、一番近くで見ていたという自負が、今の慶汰から欠席という逃げる選択肢を消していた。
「今度のパーティーはね、〝りゅうぐう〟竣工記念の打ち上げみたいなものなんだってさ。表向きの正式な式典は別にあって、そっちは出なくていいみたいだから、そこまで堅苦しいものではないらしいけど」
 最新のレーダーや機材を搭載した海底探査潜水艇〝りゅうぐう〟。
『未だ謎多き深海の神秘を丁寧に解き明かす』という売り文句を掲げたそれに、浦島深海株式会社も少なくない額を投資している。もっとも慶汰は父から写真を見せて貰っただけで、実物を見たことはないが。
「ん……?」
 慶汰は頭を抑えた。頭痛、というわけではなく、なにか大切なことを思い出せそうな、だがどうもそれがなんなのかよくわからない、もどかしい感覚に眉を顰める。〝りゅうぐう〟、竣工記念、打ち上げ、堅苦しい……先ほど口にした言葉を頭で振り返ってみるも、この中にド忘れした記憶を引き出してくれるキーワードがあるのかもわからない。
「なぁんか、姉さんに伝えておきたいことがあったんだよなぁ……」
 結局、約束の一時間が過ぎるまで思い出すことはできず、慶汰は「また来るよ」と声をかけて、海来の病室を後にした。

 病院からの帰り道、慶汰は待ち合わせの鎌倉駅で電車を降りた。もっとも約束の時間までは二〇分ほど空きがある。少し急げば昼飯代わりにハンバーガーでも食えるかもしれない、と、慶汰は待ち合わせ場所から逆方向の東口改札へ出た。
 大きなバスロータリーに出てすぐに、どこかで聞いたような女の子の声が耳に届く。
「気安く触らないで」
 道行く人たちは、半分くらいが不思議そうに、もう半分くらいは物珍しそうに、同じ方を見ている。注目の的となっていたのは、ありきたりなナンパの現場だった。
 男は体格のいい二人組。後ろ姿だけではなんともいえないが、観光客ではなく地元の人だろう。男たちが邪魔で、ナンパされている女の子の姿は見えない。
「ずいぶん気合い入ってるじゃん。こんな真夏に暑くないの?」
「あなたには関係ないでしょ」
「聞いた? この子から俺に話しかけてきたのになんなんだ? この冷たい態度」
 男の身体が揺れて、二人の隙間から女の子の姿が一瞬だけ見えた。青い着物、水色の羽織。フラッシュバックする、昨日の記憶――あの子は!
「アー……アー……ナントカちゃん。名前なんだったっけ? とにかく!」
 咄嗟に足が動いていた。
「君、面白いな。中学生か? 名前は?」
「あたしは――」
「ストーップ!」
 慶汰自身、訳がわからず割って入る。左の袖口に右手を突っ込んだアー――やっぱり思い出せない――の右腕を掴みながら。
「あ! あなたは!」
 豪華な着物の少女が目を見張る。
 一方、ナンパ男二人は不機嫌そうに慶汰を睨んだ。男は二人とも悪趣味なピアスをつけていて、態度も含めて柄が悪い。ぱっと見二十代後半から三十代、少なくとも十代ではなさそうだ。
「おい。なんだにーちゃん、この子のツレ?」
 慶汰は彼らを無視して、彼女の腕を引っ張った。
「アーちゃん、こんなところでなにやってるんだー、急がないとー!」
「誰がアーちゃんよ!? というか、どうしてここに!?」
 羞恥心や恐怖なんて、今の慶汰にはなかった。あるのはただ、使命感だけ。いや、恐怖はあるのだ。それに、使命感と言ってもかっこいいものではない。
 今、慶汰の脳裏には、昨日間近で聞かされた二発の銃声が強烈に響いている。仕組み不明の鉄扇を持つ好戦的な女の子を、臨戦態勢にさせてはいけない。それを知っているのはこの不特定多数の中で慶汰だけで、だからナンパ男たちが怪我をするのを未然に防げるのも慶汰だけで、それができなければ辺り一帯が大パニックになってしまう。その予感が、使命感の正体だった。
「おい無視すんなやコラ!」
 男たちを怒らせてしまったことに気づいて慶汰は警察沙汰になる覚悟を余儀なくされる。瞬間、電話越しのような幼き少年の音声が届く。
〈アーちゃん、ここは彼に合わせて引こ~? 騒ぎになったらまずいでしょ~〉
「それもそうね……で、なんでモルネアまでアーちゃん呼びなわけ?」
「いいから走れ!」
 慶汰が手を引くと、彼女はナンパ男たちを一睨みして鉄扇を振るう。瞬間男たちは目を覆って悲鳴を上げた。何を仕掛けたかはわからないが、その隙をついて走り出す。
 線路の下をくぐるトンネルの方へ走りつつ、小声で少女に指示した。
「君、姿消せるんだろ? トンネル曲がった瞬間にそれやって逃げるんだ!」
「あなたは?」
「俺は自分でなんとかするからっ」
「そう」
 ただし作戦はなにも思いついていないのだが。一歩ごとにかたんかたんと音を鳴らす彼女の下駄が今は恨めしい。
「さん、に、いち!」
 駅前の歩道からトンネルに入った瞬間、慶汰は手を離した。
 少女は慶汰の指示通りに消える。もちろん目撃者はたくさんいて、消えた、消えたと困惑しているが、それについてはどうしようもない。
「やっぱり無策じゃない」
 声だけが聞こえた直後、慶汰の手が握られ、かつ視界から消えた。手どころか、慶汰の全身が見えなくなっていた。
「どうなっ――!?」
 声を上げそうになった瞬間、遮るように少女の声が小さくも鋭く聞こえる。
「――シッ。あなたも透明にしたわ。声は消せないから気をつけて。行くわよ」
 咄嗟に探すが、姿は見えない。引っ張られるまま駆け足で距離をとると、腕を引く力が弱まる。むしろ、走り続けようとする慶汰を止めるように引っ張られた。
「――見えなくしたって言ったでしょ。もう走る必要なんてないわ」
 振り返れば、その場にいた人たちが皆、目をこすったり周囲を観察したりしていた。
「――やばいな、ちょっとした騒ぎにしてしまった……」
「――安心なさい。全員に記憶麻酔術をかけたから。しばらくすれば忘れるわ」
 記憶麻酔術と言われて、心当たりを思い出す。慶汰も昨日、海で眩しいフラッシュを焚かれた。きっとそれがそうなのかもしれない。もっともトンネルの中で強烈な光の明滅は見えなかったから、喰らった人だけがそう感じるものなのだろう。
「――とにかく、このあたりで人気のないところを教えなさい」
「――夏休みシーズンだから自信はないけど、そこの階段を上れば多少は」
 慶汰は少女の手を握り、トンネルを抜けてすぐのところにある階段を上っていく。上った先に飲食店があって、奥に進めば住宅地だ。慶汰はすぐそばの細い路地に身を潜めた。
 突然、和装少女が出現する。透明化を解いたのだろう。慶汰の手足や服も見えるようになっている。
「さて、あなた。ウラシマケータとか言ったわね。どういう了見か聞こうじゃないの」
 眉を顰めた少女に鉄扇を突きつけられ、慶汰はやっぱこうなるんだな、と苦笑しながら答えた。
「いや、あのままじゃまずいと思って……」
 主にナンパ男たちの命と、周辺の人たちの精神面が……とは、心の中だけで付け足した言葉だ。
 呆れたように溜息をついた彼女は、鉄扇を袖の中にしまった。
「でもまあ、正直面倒な状況だったし、感謝するわ。ありがと」
 拍子抜けした気分で「どういたしまして」と答えると、また少女の目が細くなる。
「なによ?」
「いや、自分でもなにがなんだか……」
「まあいいわ、一つ聞かせて。いったいウラシマって何人いるのよ?」
「はい?」
「だから名前よ。あたしはウラシマって一族の末裔に用があるの。なのにあなたはおろかさっきの男まで、これで五人目よ。いったい何人いるわけ?」
 妙な会話の流れに引っかかりを覚えつつ、慶汰は一応素直に教える。
「えっと、姓が浦島の人は、国内で百万人強って聞いてるけど。たしか、多い苗字ランキングトップテンには入ってたはず」
 九位か八位だったはずだ。慶汰の感覚で言えば、小林、中村、山本、加藤の姓を持つ人と同じくらいいるわけだ。
「はぁ……っ!? そんなにいるの!?」
「そういうアーちゃんは、いったい何者なのさ」
 少女は目を泳がせる。
「お、乙姫第二王女よ」
〈『元』をつけなきゃ〉
 即座に幼き少年を思わせる電子音声が割り込んできて、王女を名乗った少女は自身の右手を睨みつけた。
「余計なことは言わないでよろしい」
「乙姫第二王女? 乙姫って、あの乙姫か……?」
 慶汰の声が上擦る。妖精や魔法のようなファンタジックな存在が実在するかもしれないというような期待と、幽霊や呪いのような存在してほしくないオカルトが実証されてしまうんじゃないかというような恐怖が入り交じった緊張が、慶汰の顔を強張らせる。
 一方で、少女はどうも不満そうに眉を落としながら答えた。
「乙姫陛下はあたしの母上の肩書きであって、あたしはその次女だから乙姫第二王女。というか、母上のことを呼ぶ時はせめて様をつけなさい様を。不敬よ」
 慶汰の全身に鳥肌が立った。
「え、ちょっと待って……じゃあまさか……浦島太郎は……竜宮城は――」
 亀を助け竜宮城へ行って帰ってきた浦島太郎という人物は、歴史上に実在する。それは義務教育として誰もが習う。だがその内容全てを信じるかどうかとなれば、話は別だ。鎌倉幕府の創設年が昔の年表と今の年表で違うように、誰もが史実だと信じても真実だとは限らない。
「あら、てっきり風化して歴史の墓に埋葬されたとばかり思っていたけれど……知っている人はいるものね。これは重畳」
 改めて慶汰は、アーちゃんこと乙姫第二王女を名乗る女の子を見る。
 高級そうな木の下駄を履いて、小柄な身体を青い着物で包み、濃い青の帯と金の帯紐で締めて、水色の羽織を身に纏い、綿のような白いストールを、ふわふわと頭上に浮かせている。この真夏にそんな格好をして汗のひとつもかいていないことも含め、消える、飛べる、と異質な存在だ。
「ケータ、と言ったかしら」
 竜宮城のお姫様が、真剣な顔つきで慶汰を呼ぶ。
「このあと時間ある? よかったら、色々と話を聞かせてほしいのだけれど」
 慶汰としても、彼女の話には興味がある。……だが、予定を忘れてはいけない。
「ごめん、今日は予定があるんだ」
「そう……残念だわ」
 せっかく知り合えたのだからと、慶汰は明日また会えないかと提案するつもりだったのだが……それより早く、王女様が振り袖から鉄扇を引き抜く。
「そういうことなら悪いけど、またあたしたちのことは忘れてもらうわね」
「え、ちょ!?」
 ぱちん。視界が明滅すると同時に、またしても彼女の姿が消失する。
 海での時もそうだったが、喰らった直後に綺麗さっぱり忘れてしまうわけではないらしい。
 ならば、と慶汰は待ち合わせ場所まで足を急がせた。忘れる前に父に伝えて、忘れた自分にその話をしてもらえば、思い出せるはずだ。
 人で賑わう旧駅舎時計台の広場を抜け、鎌倉駅西口まで駆け足で戻った慶汰は、今まさにロータリーに停車したシルバーのセダンを見つけてスピードを上げる。
 運転席には、紺色のポロシャツを着た父の港鷹が座っていた。目元の皺は濃く、今年で四五歳になるのは慶汰もわかっているが、会社での苦労が多いのか、単に歳が離れているせいでイメージがつかないのか、慶汰的には五十台後半くらいに思える風貌をしている。
「父さん、ちょうどいいところに!」
 慶汰がいきなり助手席のドアを開けると、港鷹はびくりと肩を跳ね上げた。
「うわっ、なんだ急に。というかもう着いていたのか」
 慶汰は車の中から外へ逃げようとするクーラーの冷気を浴びながら、早口で捲し立てる。
「いいから黙って聞いてくれ、忘れちまう前に! 竜宮城からお姫様が来たんだ、えっと、あの、……なんだっけッ! くそまだ見た目と声は憶えてるのにもう名前が出てこねぇ!」
「はぁ……? どうしたんだ、いったい。とにかく早くドアを閉めてくれ」
「ああ、悪い……」
 シートに座ってドアをバタンと閉める。シートベルトを取るべく身体を捻ると、お腹が盛大にきゅるると鳴った。
「なんだ、昼飯食ってなかったのか?」
「いや、ハンバーガー食べに行こうとして……そういや食ってないな……なんでだ?」
 と呟いた瞬間、慶汰は左手で掌打するように額を叩いた。
「そうだ。やっぱりさっき、たしかになにかあったんだ、そのせいでまだ食べてないんだ。わからないけどだからこうなっているんだ、俺の気のせいじゃねぇ……!」
 父に緊急で伝えなければいけない、そんな使命感に似た緊張感が、たしかに胸の中にあるのは自覚している。にもかかわらず、それが何だったのか、今となっては思い出せず、もどかしい思いを感じている。
「本当に大丈夫か? 竜宮城だお姫様だって、いったい何の話だ」
「竜宮城……? お姫様?」
 急に何を言い出すんだといわんばかりに、慶汰の眉間に皺が寄る。港鷹はより深い渋面を浮かべた。
「お前がさっき言ったんだろう……」
「う~ん、さっき姉さんの病室でも似たようなこと思ったんだよな……今日はやけに物忘れがひどくて」
「熱中症か?」
「かなぁ……まあ、気をつけるさ……」
 思い出したらその時に話そう。そう決めると、一気に焦燥感が引いた。慶汰は本来の予定をこなすことを優先する。
「で、父さん。今からどこ行くんだっけ?」
「何言ってるんだ、お前のスーツを新しくしに行くんだろ」
「そうそう、それだ。……うん、予定は聞けばちゃんと思い出せるのに……」
 唸る慶汰の様子を見て心配になったのか、港鷹はハンドルに乗せた両手の指を組んだ。
「……今日は帰るか?」
「いや、大丈夫。行こう」
 港鷹がハンドルを握り直し、アクセルを踏んで、ゆっくりと車が動き出す。
「海来の調子はどうだった?」
「いつもと変わらないよ」
「そうか……」
 港鷹も様子を見に行かないわけではない。元々、平日は午前中に母親が顔を出して、放課後に慶汰が来て、夕方には港鷹が訪れる。その組み合わせが寝たきりの海来に時間感覚を与えるためにいいだろうと、家族の共通認識になっていた。
 それが夏休みになって母親がパートを始めたので、朝は慶汰、夕方は両親という組み合わせに変わったのだ。
「明後日のパーティーは過去一番大規模なものになる。たくさん話しかけられるだろうから、頑張れよ」
「話しかけられるって、俺が?」
「玉手箱がどんなものか、みんな興味があるんだ。パーティーでも実物をお披露目するから、何か話せるようになっておいてくれ」
「何かって言われてもな……ただのおかしな木箱だろ、あれ」
「そのおかしなところが皆気になるんだ」
 普段は鍵の掛かった倉庫に保管されているが、結局のところ木の板でできた段ボールサイズの重たい箱としか言いようがない。
 ただ、分厚い木の板の原料は不明な上に、継ぎ目が一切見当たらず、蓋の可動部に金具などのパーツが一切ない。この一点に気づけば、一気に不気味な雰囲気を覚える。
 これが厚紙や鉄板なら、折り紙でサイコロを作るような感じで製作可能なのだ。箱状にできるように十字に切り出した後、直角の折り目をつけて、蓋の部分を丸い屋根状に湾曲させ組み立て、接着するという工程を経ればいい。
 だが、木材でそんな真似をしようとすれば、バキッと折れてしまうだろう。
 いわばオーバーテクノロジーなのだ。木材の板を紙細工のように加工する、という、あまりに地味で、かつ不気味なだけの、再現不可能な未知の技術。
 それが玉手箱の異常性だ。
「まあそりゃそうだろうけど……開いたって何も起こらないだろ」
「開いて何も起こらないことを知っているのは開いた者だけだ」
「……何が言いたいのさ」
「何か話せるようになれと言ったが、別に難しいことを話せるようになれって言ってるわけじゃないんだ。ただ、慶汰としては話題にならないと思うようなことでも、相手にとっては楽しい話かもしれない」
 慶汰は頬杖をついて窓を流れる外の町を見やる。見知った穏やかな住宅街の風景だ。観光に来たのだろう、若い大人の女性の二人組がスマートフォンと近くの海鮮料理店を交互に見ている。
「そう言われてもねぇ……」
 港鷹は簡単そうに言ったが、慶汰にとっては難しい話だった。
 姉のような人を惹きつける魅力が自分にないことは慶汰自身よくわかっている。だからそのぶん、頑張らなければいけない。だが、その辺りがあやふやで、どうすればうまくいくのかよくわからないのだ。
 再び、腹が鳴った。
「フッ。まずはお前の腹ごしらえからだな」
「父さんは?」
「家で食ってきた」
「そう」
「あまり食い過ぎるなよ、この後ウエスト測るかもしれないんだから」
 昔、海来と母親がそんな会話をしていたことを思い出して、慶汰は苦笑した。
「……そのセリフ、父さんが言うと似合わねぇな」
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