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鶴供養の話【岩手の伝説③】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館


昔、二ノ台に一人の猟人(かりうど)がいました。

その猟人は、鉄砲を射てば百発百中という名人でありました。

昨日は鳥、今日は獣と、猟に出た日は、一日として肩に獲物のない日はありませんでした。

毎日のようによく獲れるので、猟人の生活は次第に豊かになり、その心は高慢になってきました。

そこで近所の人には、誰一人として、彼と喜んで交際する者がないようになりました。

ある日、猟人はいつものように、鉄砲を肩に猟に出かけました。

そして、家から五、六町も来たと思った頃、異様な鳥の声を耳にしました。

猟人はふと空を仰いで見ると、綺麗な一羽の鶴が飛んできたのであります。

しかもよく見ると、丹頂の鶴なのでありました。

昔から丹頂の鶴は、ある女神の化身として一般に敬われ、ことに獲るなどということは、互いに戒めておりました。

ところがこの猟人は、心が高慢になり、昔からの習わしで獲って悪いというものも、獲ってみたい心になっていました。

今、丹頂の鶴が飛んできたのを見て、ただ見逃すはずはありません。

肩から鉄砲が離れるや否や※、凄まじい音がしました。

※~するやいなや・・・するとすぐに、すると同時に

鶴はと見れば、哀れにもただ一声悲しい鳴き声を残したきり、地上に射落とされてしまいました。

猟人は馳せ寄って、鶴を片手にするや否や、喜びの声を上げました。

昔から鶴は綺麗な鳥だと聞いておりましたが、こんなに綺麗な鳥とは、今まで思わなかったのであります。

そして羽から胴、首という風に珍しげに眺めておりましたが、ハット驚かされました。

それは死んだ鶴の目のみが、未だ生きているように、怨めしげに見えたのです。

猟人は一度はハット驚いたものの、例の高慢の心がむらむらと起こり、早速鶴を抱いて、これ見よがしに近所の人に見せました。

近所の人々は、目の当たり※初めて鶴というものを見たので、いずれも珍しげに見ておりましたが、丹頂の鶴と知れると、驚きの声を発したのでありました。

※目の当たり(まのあたり)・・・実際に、眼前に

そして猟人の無謀を誹らない(そしらない)者はありませんでした。

「キット祟りがある。」

猟人は今にどうにかなるぞと、人々は囁き合うのでした。

しかし本人は、丹頂の鶴を獲ったことを功名※にして、その日は猟を休むことにして家に帰りました。

※こうみょう・・・手柄を立てて名を上げること。

家の人も始めは非常に珍しがりましたが、丹頂の鶴と分かると、いずれも怖れに襲われたのでありました。

猟人は母から、

「丹頂の鶴は決して射てならないと言われたのを、忘れたか。」

と叱言※を言われ、非常に胸糞が悪く、その夜は不機嫌で床についたのでありました。

※こごと・・・咎めたり非難したりする言葉。

明くる朝、猟人は大したことではありませんでしたが、キリキリと片腹が痛んで、眼を覚ましました。

驚いたことには、傍らに寝ていた母や妻をはじめ、三人の子供がいずれも苦しそうに身を振るわしながら唸っているのでありました。

猟人はガバと跳ね起き、母を揺り起こし聞いてみると、真夜中頃から痛み出し、その痛さはとても堪えることができないとのことでした。

妻や子供から聞いても同じことでありました。

子供は痛さのため、ろくろく口さえきけないほどでありました。

猟人はもしや鶴の祟りではあるまいかと、一寸思ってもみましたが、気丈な彼は、獲った鳥や獣が祟るなら、今までに何百回の不思議なことがあるはずだ、

「馬鹿なァ」

と一笑に付してしまうのでありました。

猟人は病人にそれぞれ、熊の胆や当薬※を与えましたが、何の効き目もありませんでした。

※とうやく・・・センブリの全草を乾燥させたもの。民間療法で胃薬として使う。

そこで鶴は薬にもなるということを聞いていたので、昨日獲った鶴を調合して与えてみました。

効き目がないどころか却って(かえって)悪くなり、五人とも下痢を起こすやら吐くやら、その苦しみは傍から見ていられないほどでありました。

医者に診てもらうとしても、遠く城下へ出なければ頼むことができず、それに猟人一人を残して、一家全部の患いであるので、流石に高慢気丈な彼も、ただ呆然となるばかりでありました。

二日と経ち、三日となるにつれて、五人の患者はますます重くなるばかりでありました。

そして七日目頃からは、五人とも死人同様になって、躰(からだ)からは異様な臭いが出るようになりました。

そして五人が時々生き返ったように、

「鶴が鶴が」

とうわ言を言うのでありました。

猟人も片腹が時々キリキリ痛みましたが、それでも今日まで我慢して看病をしていましたが、今は続いて差し込んでくるので、もう耐えられなくなって遂に床についてしまいました。

そして五人が悶え苦しみ続けるのでありました。

猟人一家のこの有様を見るに見かねて、近所の人々は何とかして救わなければならないと相談しましたが、鶴の祟りだと信じた人々は、どうすれば猟人一家を救うことができるかと相談しても、別に良い考えとて出てきませんでした。

その時一人の老人が、鶴の祟りであるかどうか、まず占をしてもらったならどうかと申しました。

そこで近所の人々は、早速老人の言葉に随って、五里余り※もある隣村の占い師について、観てもらうことにしました。

※五里・・・日本の単位だと20キロメートルくらいの距離。

占の結果、猟人一家の患いは、丹頂の鶴の恐ろしい祟りであるということでありました。

そして猟人一家の命が旦夕※に迫り、最後に猟人は、祟りのため悲惨な死に方をするとのことでありました。

※たんせき・・・この朝か晩かというように、時期が差し迫っていること。

これを救うには、地を劃して※、そこに柳の木を植え、鶴の供養を営み、永久に霊を弔わねばならないとのことでありました。

※劃する・・・かくする。はっきりと区切る。画するとも書く。かぎる、くぎる、わかつ。

そこで近所の人々は、その翌日、神官と僧侶を頼み、地を劃して、柳の木を植え、盛大に鶴の霊を弔いました。

その翌日から、猟人一家の患いは次第次第によくなり、その後一ヶ月ばかりして、一家六人、歩行するまでになりました。

そして二ヶ月後には、元の躰になり、働くことができるようになりました。

それから猟を全くやめ、高慢な心を改め、実直になりました。

そして今までと違って、神仏を尊ぶようになり、母には孝養を怠りませんでした。

後に人々が鶴の供養塔を立て、鶴供養の文字を刻み込みました。

二ノ台と言えば鶴供養を思い出されるまでに、土地の信仰を深くしております。

今も尚、この地名は俗に鶴供養と呼ばれ、通用されています。



又、二ノ台の鶴供養については、次のことも言い伝えられています。

甲州武田の遺臣に、蜂谷冠者定国※なるものがあり、小山村鞍骨(くらぼね)に、武田舘を構えて、その勢が盛んでありました。

※武田信玄の遺臣で、岩手県の胆沢地域の山中深くに逃げてきたと言われている。

この舘は、今の鞍骨と下鞍骨とにわたって方八丁※をなし、西門東門を伴い、前後には沼をひかえて、堅固な舘であったとのことであります。

※ほうはっちょう・・・古代~中世日本における、土地区画の一種。辺境村落につくられた一形態で、兵営的な性格も持つ。

こうした堅固な舘に籠って、その羽振りは大したものでした。

鞍骨の西南に、一ノ台、二ノ台の狩猟場があり、蜂谷冠者定国も、時々狩猟に出かけたのであります。

晴れ渡ったある日、定国は従者を引き連れ狩猟場に行く途中、鞍骨堤の畔(ほとり、あぜ)を通ると、堤の中で、白色丹頂の鶴の夫婦が、楽しく小魚を漁っていました。

これを見た定国は驚喜して矢をつがい、満身の力で引きしばり、ヒューと放てば、矢は違わず雄を射貫き、雌の羽をかすって水中に入ったのであります。

この不意の出来事に、傷を負った雌鳥は一時は驚いたが、すぐに堤の端の草葉を嘴でちぎり取り、傷口に当て、舞い上がったのであります。

この有様を見ていた定国は、またもや満身の力を込めてヒューと放てば、雌鳥は一声叫ぶや否や、バッタリと地上に落ちたと同時に、

「大変だ」

という叫び声がありました。

なんと雌鳥を射たはずの矢は、定国の愛娘の胸を貫いておりました。

意外の出来事に、定国はただ呆然とし、狂気するばかりに、愛娘を抱き上げて泣き悲しみました。

これはきっと、千年丹頂の鶴の祟りならんと、二ノ台の地に鶴を葬り、供養塔を建て、その霊を祀ったのであります。

丹頂の鶴の渡来は瑞兆なりと信じている士民※は、その祟りを怖れ、参詣が絶えなかったということであります。

※しみん・・・士族と平民。武士と庶民。

後年になってから、古城村のある者が、朝草刈りにこの地に来て、草荷の中に供養塔を入れて持ち帰り、主人の所有地にそれを建て、神様が降りてきたと称し、近所の人々はこの有難い神様を敬い尊んだということであります。