『文明論之概略』を読む 【福沢諭吉の文明論】
政治学者の丸山眞男さんの著作に『「文明論之概略」を読む』があります。
これは、岩波文庫版の『文明論之概略』をテキストとして、二十数回にわたって開かれた読書会での講義を基にしてまとめられたものです。
明治八年、福澤が41才の時に著された『文明論之概略』は、人文科学・社会科学・自然科学という全ての分野に通用する基本書です。
慶應大学を受験しようと思っているのであれば、学部の如何を問わず、全ての受験生が読んでおくべき必読の教養書と言えるでしょう。
卷之一第三章「文明の本旨を論ず」において、福澤は、「文明」を次のように定義しています。
福澤の主張によれば、衣食住の安泰を目指しているだけでは文明国とは言えないことになります。
選挙の度に、有権者の歓心を買おうと、経済政策(特に交付金をばらまくこと)ばかりを口にしているようでは、到底文明国とは言えないでしょう。
国民の豊かな暮らしや経済的な繁栄は、文明国の必要条件であっても、十分条件とは言えません。
福澤は「国民の精神的な高尚さが要求されるのだ」と言いたいのでしょう。
他国から「日本の国民は優れている」と言われるくらい、尊敬される部分が無くてはならないのです。
これは、文明がもたらす無形の価値と言えるでしょう。
福澤は、「ここに文明は存在するのか」ということに対して、4つの問題提起をしています。
「税金が薄く、犯罪者がきちんと処罰されて治安が良く、衣食住が安泰であるというだけでは、その国が文明国であるとは言えない」と福澤は言っているのです。
ここでは、「経済的には貧しくとも、宗教的・道徳的理念の高い国家」のことを述べています。
江戸時代の日本のように、儒教的「武士道」精神が支配していた封建国家を想定していたのかもしれません。
かつてのヨーロッパ諸国のように、弱肉強食の論理で貫かれた大国主義や帝国主義、植民地主義の国家を想定しているのでしょう。
このような国を「文明国」と呼んでよいのか、という問題提起です。
ここでは、近代化以前のアジアやアフリカにみられた部族社会のことを言っているのでしょう。
平和ではあっても、国家の認識をもつこともなく、人々は動物のように「その日暮らし」の生活を続けているだけです。
福澤は、この四つのケース全てを「文明国ではない」と結論づけています。
テクノロジーや科学技術による物質面が繁栄しているだけの国を「文明国」と呼ばないのはもちろんのこと、崇高な宗教的・道徳的理念だけで物質的な豊かさがない貧しい国も、同じく「文明国」とは言えません。
福澤は、「物心両面において栄えているのが、真の文明国である」と言いたかったのだと思います。
さて、現代の日本は、福澤が言う「真の文明国」でしょうか。
小論文の問題として、このようなことが尋ねられた場合、自分なりの「文明国家観」を提示していく必要があります。
現代日本に対して、批判的な分析と、そこから導き出された問題点を解決するための発展的な改善策が求められます。
現代を批判しているだけで、そこに改善策が無ければ、評価は低くなります。
逆に理想論を述べて、現状に対する分析が無ければ、机上の空論となってしまうでしょう。
提示する解決策も、テクノロジーを前提とした技術革新だけでは足らず、道徳論や倫理的な宗教論を滔々と述べるだけでも加点されることはないでしょう。
福澤が提起している問題は、21世紀の現代においても、世界各国で取り組むべき課題と言えるでしょう。
「物質面と精神面を、どのようにして融合的に進歩発展させていくのか」という課題は、現代の人々、特に若者たち全てに投げかけられているものです。
10年後、20年後、30年後の未来をどのように築き上げていくのか、明確なビジョンを打ち出して進んでいかない限り、それを成し遂げることができないでしょう。
目前の困りごとに対応しているだけでは、その場限りの対症療法と言われても仕方ありません。
病気になってから、それを治療するのではなく、病気にならないための進化が求められているのです。
進歩発展や社会の進化は、人が積極的に取り組んでいかなければ、決して実現されることはありません。
そのためには、まず明確なビジョンを共有することが重要となってきます。
福澤が残してくれた『文明論之概略』は、そのような局面で、大いに参考となるはずです。
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