本当の「学問の力」とは 【『論語』と『左伝』に学ぶ】
ここに登場する子服景伯は、魯国で三桓氏といわれていた孟孫氏の分家の家系であり、魯国の政界の中で孔子派の人でした。
『論語』でも数回登場しますが、『左伝』でも多くのエピソードが掲載されています。(襄公28年・31年、昭公3年、哀公3年・7年・8年・12年・13年など)
魯の国では、三桓氏であった季氏、孟孫氏、叔孫氏が高位にありましたが、子服氏も同じくらい高い地位にあり、しかも今で言う裁判官か検察官のような職務であったことがわかります。
哀公3年の記事をみると、この年の5月、公宮で火災が発生し、桓公と僖公の廟が焼失する事態となりました。
この時、子服景伯が現場に到着した際に、次のように指示したことが残されています。
この記事をみても、子服景伯が職務に忠実で厳格な人物だったことが窺えます。同時に、犯罪者を処刑する権限を有していたことも読み取れます。
孔子にとって、このような人が味方であったことは、非常に心強かったのではないでしょうか。
そのような子服景伯が、冒頭で紹介したように、「公の場で処刑し、その屍を晒し者にする」と言ったわけですから、公伯寮の所業は余程のことだったのでしょう。現代の刑法でも、内乱罪は重罪となりますので、それに近いようなことをやったのかもしれません。
このような事情を知らないと、次に続く孔子の言葉が正しく理解できません。
ここで言われている「道」とは、「学問の道」「礼の道」「徳の道」「自己修養の道」といった意味合いを含む総合的なものです。
ここに孔子の明確な覚悟があります。
「自分は道と共に生き、道と共に死す。」
「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり。」
自分を活かすも殺すも「命」であるから、公伯寮ごとき小人に命を動かす力などない、と言いたいのでしょう。
「死生命有り、富貴天に在り」です。
「命」とは、「天命」とも「運命」とも「宿命」とも捉えることができるものです。
かつて孔子が宋に赴いた時、桓魋に殺されそうになった場面でも、次のように断言しています。
道には天道・地道・人道がありますが、道に生きる者は人の道というものを大切にし礼を尽くしていれば、やがて天が味方し、何ものも自分の道を邪魔するものなど現れないという強い信念が、孔子にはあったのです。
これこそが、本当の「学問の道」であり、「学問の力」と言えるでしょう。
孔子の言動から、現代の人たちが学ぶべきは、まさにこの点にあるのではないでしょうか。