早稲田の古文 夏期集中講座 第6回 歌道とは
早稲田の法学部で2017年、「無名抄」が出題されました。13章「歌仙を立つべからざるの由教訓のこと」です。歌人であることをいちいち人に言いふらしてはいけない、とする歌道の戒めを問題にしたのです。
「あなかしこあなかしこ、歌よみな立て給ひそ」とあります。名を立ててはいけない、と言うのです。注には、「歌詠みとして身をお立てなさいますな」とあります。(『無名抄』久保田淳訳註 角川ソフィア文庫)
名誉欲や功名心を捨ててこそ歌道という求道(ぐどう)の道が成立するのです。歌道・茶道・華道はすべて武道に通じる修行の道というものがあるのです。
論語の第一章で「人に知られずして慍(うら)みず、亦、君子ならずや。」とあります。(金谷治訳注『論語』岩波文庫)学習ということについて、自分の努力が人に知られなくても、うらまない、それが行いの正しい君子というものだ、と言うのです。人に評価されるためにする努力というものは本物ではありません。他人の監視がないと手抜きしてやらなくなるからです。
論語にも、「古(いにし)えの学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。」とあります。(憲問第十四)昔の真の学者は自分の実力や学力が徳行の向上のために、学問をし、今の人は他人に評価されるためにする、と言うのです。
「さて、何事をも好むほどに、その道にすぐれぬれば、『錐(きり)、嚢(ふくろ)にたまらず』とて、その聞こえありて、しかるべき所の会にも交はり、雲客月卿の筵(むしろ)の末に臨むこともありぬべし。」と『無名抄』では述べています。
好きこそものの上手なれ、で努力を続けて真の実力者となれば黙っていてても「嚢(のう)中の斬(きり)」のように評判となり、歌会などにも、お声がかかって実力が認められるだろう、というのです。とがった錐(きり)の先のように、どんな板でもつらぬく実力を身につければよいのです。これを道心(みちごころ)と言うのです。<終>