B・ラッセルの『核廃絶運動』
数学者にして哲学者であり、ノーベル文学賞も受賞しているバートランド・ラッセルは、1970年に98歳で亡くなるまで、「核兵器廃絶運動」に生涯を捧げました。
彼は、「市民運動家」であることを貫きました。
1916年、反戦著述活動のため100ポンドの罰金刑を受けたことから、ケンブリッジ大学での教職を解任されたことから始まり、
1918年には、反戦活動をしたことで禁固6ヶ月の刑を受けて、ブリクストン刑務所に収容されます。
1961年9月、当時89歳だった彼は、イギリス国防省の玄関前で行われた座り込みデモ運動に参加し、二度目の逮捕投獄を経験します。
翌1962年のキューバ危機の時には、アメリカのケネディ大統領とソ連のフルシチョフ第一書記宛てに説得するための電報を打っています。
1965年になり、ロンドンで「核兵器廃棄青年運動」を主催していた彼は、核戦略をやめない英国労働党に抗議して、聴衆の面前で自らの党員証を破り捨てたと言われています。
1968年に、ソ連がチェコスロバキアに軍事侵入をした際にも、抗議の声をあげ、同年2月と5月に、ストックホルムとロンドンで「ソ連のチェコ侵入に抗議する世界大会」を開催しています。(講談社「人類の知的遺産」66「ラッセル」市井三郎著より)
市井氏は、「ラッセルの直接行動の原理は、常に『市民的不服従』という名で呼ばれる非暴力、若干非合法の運動だった」と述べています。(同書P.126)
これは、明らかにキング牧師やガンディーの直接行動理念と同じものであり、おそらくですが、ソローの「市民の反抗」理念と同質のものであったのではないかと推測しています。
ラッセルの名を世界に知らしめたのは、何と言っても、1955年に発表された「ラッセル=アインシュタイン声明」でしょう。
ビキニ諸島で水爆実験が始まり、第五福竜丸事件が起きた、米ソの核軍備競争が激化していた時代に、ラッセルとアインシュタインが話し合ったことをきっかけとして、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国、カナダの6ヵ国の元首または首相に「核兵器の禁止・廃絶」を訴える声明が送られました。アインシュタインは、この声明を出した1週間後に亡くなっています。
この声明は、世界的に反響を呼び、パグウォッシュ会議が開かれるきっかけとなりました。
パグウォッシュ会議は、ノーベル賞級の世界的科学者を集め、核廃絶を訴えるものとして、ラッセルが構想したものです。
1957年7月に開催された同会議には、日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹氏も参加しています。
このような人生を歩んだラッセルが、若い頃、J・S・ミルに強い影響を受けていたことは余り知られていないかもしれません。
「どうやって書くか」という短いエッセイの中で、21歳までミルの文体に憧れていたと告白しています。
彼は、祖父の書庫で見つけたミルの著作をかなり読んでいたそうです。
ラッセルが4歳の時に亡くなった父親は、ミルと深い交流がありました。
ミルと友人であるだけではなく、弟子でもあったようです。
そのような縁から、ラッセルの名前もミルが付けたと言われています。
彼の母親であるケイトも、婦人参政権運動に参加していました。
名門貴族である彼女が、婦人の平等を主張したという事実は、当時の社交界を大いに震撼させました。
本当の自由主義者や個人主義者は、大国のエゴの象徴である「核兵器による脅迫」を心底憎んでいます。
核兵器は、「個人の尊厳」や「個人の自由」を侵かす最大の敵だからです。
「核兵器廃絶運動」に生涯を捧げたラッセルが、多大なる影響を受けていたJ・S・ミルの思想は、これからも「世界平和への強い原動力」となるでしょう。