「生き別れた母」を求めて、中国学にささげた大学4年間
みなさんは、大学の専攻をどうやって決めただろうか。
何を隠そう、私の進路を決めたのは「推し」である。
私は大学時代を中国学にささげた。中国学とはその名のとおり、中国の言語や文化、歴史、思想などに関する学問だ。
私の「推し」は某国擬人化漫画に登場する、中国を擬人化したキャラクターだ。つまり、私にとって中国学とは「推し」を解剖していくような「推し活」の一環だった。
教室の最前列でニヤニヤしながら講義を受けている私はさぞや気持ち悪かっただろう…。
こんな不純な動機で専攻した中国学だったが、「推し」を抜きにしても中国学を深められたことは人生の財産だと思っている。
隣国であり、同じ漢字を使い、七夕など近しい行事がある一方で、びっくりするような違いがあったりする中国。近いようで遠い、似ているようで似ていない中国。切っても切れない関係の国──。
「われわれにとっての中国は、たとえば幼い日に生き別れた美しい母の記憶に似ている」
私は、この浅田次郎さんの言葉が本当に好きだ。
きっと私たちの頭にうっすらとある、かつてのきらびやかな大唐帝国の記憶。当時の先進国だった中国をお手本に、必死で平安京を作ったあの時。確かに、中国は美しい母だった。
あれから日本は成長して、中国との関係も変化したけれど。
ふとした瞬間に、中国に美しい母の面影をみるのだ。
私はきっと、その美しい母の横顔に惚れたのだと思う。
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第二言語に中国語を学ぶ人はけっこういるだろう。大学でなくても、仕事や趣味で学ぶ人もいるかもしれない。
中国語を勉強するとき、一番初めに習うであろう「四声」。「四声」は中国語特有の高低のアクセントだ。
中国語を聞いていると音の高低がはっきりしていて、まるで音楽みたいに聞こえる。これが私には小気味よくて、中国語を聞くのがすごく好きなのだ。
テレビを何気なくつけた時に中国ドラマがやっていたらついつい見てしまうし、ニュースを見ていて中国のお偉いさんの発言や住民のインタビューが放送されるとつい聞き入ってしまう。
大学時代、ある先生が「中国語は音楽だ」と力説していた。
必死に「mā」とか「má」とか叫びながら、黒板に書いた五線譜に音符を書きなぐる様子がめちゃくちゃシュールで面白くて、印象に残っている。
あまりに勢いよく書くものだから、何度もチョークが折れて飛び散っていた。チョークの破片が飛ぶたびに教室は無情にもしらけていったが、私は胸が高鳴っていった。
中国語で詩を詠むだけで、それはもう自然と歌になるのだ。めちゃくちゃ素敵すぎるな…!
そう思った瞬間、私は中国語に美しい母の横顔を見たのだと思う。柳が生い茂る湖畔にたたずむ中国美女が、詩をそらんじる。そんな幻想的なイメージがありありと広がってくる。
中国語と日本語のアクセントは異なるけれど、漢字や音が似ているところもけっこうある。例えば日本語の「開始 / kai shi」は中国語でも「开始 / kāi shǐ」だ。
日本語の中には漢の字があるし、読みにも呉の音、漢の音、唐の音がある。もちろん日本独自の国字や、読み方だってあるけれど、中国語の影響は多大に受けている。
反対に、中国へ逆輸入された言葉もたくさんある。「電気」「経済」「政治」「主義」など、近代化に伴う語彙は日本製だ。
中国について勉強しているとき、そういう共通点を見つけるのがすごく楽しい。
その共通点には、歴史があるから。
様々に変化していく文化を受け取って、大事に保存したりアレンジしたり、そしてまた相手に返したり。
たくさんの歴史を積み重ねて、言葉や文化はできているから。
なにより、私は母の横顔に惚れてしまったから。
私はけっこう甘えん坊なのかもしれないなぁ。
そう思いながら今日も母の面影を探す。