自由からの逃走 2
“妖魅”という名の実験の被験者としてこの『サルバトーレ』ロンドン支部に来てから約半月が経過した。
ヴァレンタインの言っていた通り、”青年”の血管が透けそうなほど青白かった肌は今ではすっかり健康的な色味を出しており、あれから肉体が自分のものではないかのような妙な浮遊感もなく”魂”が日に日に肉体に順応しているという実感を増幅させている。
そして、”青年”はここで過ごしていくうちに『サルバトーレ』という組織のことが片鱗でも理解できたような気がした。(目にしているものは組織のごく一部の顔でしかないだろうが)
まず一つ目、この建物の中はかなり広い。そして高い。少なくとも九階まであることが分かっている。部屋数もかなり多い。入ったことがあるのはごくわずかだけだが、部屋それぞれに何かしらの用途があるということを”青年”は推測していた。
次に二つ目、この組織にはかなりの数の人間が属しているということ。廊下を歩いていても様々な人間が行き来し、部屋にやって来るのは毎日違う顔ぶれだ。そして白衣を着ている者たちばかりだった。ヴァレンタインも白衣を着ているので彼と同じ研究員であることは分かっていたが、”青年”が直接目にする者たちはほとんど研究員だけだった。いつも近くに誰かしらいるのでたまに部屋や廊下に誰一人いなくなると最初に目覚めた”あの部屋”で感じた寂寥感が漂い始める。おそらくあの漆喰の壁のせいだろうと考える。
ヴァレンタインは”青年”に様々なことを命じた。ソテルとしての基礎訓練、剣術の稽古、読み書きなどの教養、それ以外にも啓蒙書や学術書を読ませられた。単なる物語などの読み物もあったが児童向けのものを読ませられたときは若干面喰っていたようだが、これらはなべて”青年”を”人間たらしめるためのもの”でありソテルとして活動していくにあたり必要不可欠なものであった。
“青年”は教えられたこと、与えられたものすべての知識と技能を博した。
求められるならばただ与えられたものを吸収するのみである。ただ、使命を果たすために。小さな芽から出てきた豆のような双葉が”水、光、空気、栄養を得ることによって枝を伸ばし茎を太らせ、やがて太い幹になっていく。環境は申し分ないほど整っている。富饒な土に知識と見聞という名の豊潤な緑葉が木を逞しくさせ、たちまち巨樹へと生長させる。
“青年”は己は”木”なのだと思い込ませた。どんなに時間がかかったとしてもこの”土壌”とに水”や”栄養”があればどんな”巨樹”にだって生長できる。そうやって己の使命や信念を立脚することによって”青年”は一歩一歩、地を踏みしめているような”魂が肉体に結びついている”ような感覚を起こさせているのだった。つまり”青年”に与えられた使命は”あまりにも強烈で、青年”を”人間”にするのにも”生きた心地にさせる”のにも十分すぎるものだった。
“青年”は思想の海から意識を引き上げさせた。こうして”使命”を再確認する時間は一日に何度もあった。一つのタスクを達成するごとに暇さえあればしばしば空想に耽っていた。再確認した後はよく己が何をしていたのかどこにいるのか一瞬わからなくなることがよくあった。”青年”は瞼を開けて目の前を見つめる。明瞭になっていく視界には先刻と変わらない部屋の様子が映っていた。わずか開いた窓からの風でカーテンが揺れる木漏れ日を眺める。
膝に置いていた本にスピンを挟んでローテーブルに除ける。書物の扱いに関しては常日頃から耳が痛くなるほど”青年”に口うるさく言っていた。見開きを開いたまま置くなだとか、花布や背を痛めないように丁寧に扱えだとか、ページや表紙を汚すな傷つけるな、などといったものだ。ヴァレンタインは学究の徒ゆえか書物や資料を粗雑に扱われることを特別嫌っている。”青年”は頻繁にそのことについて注意されるため、本人がいなくても気をつけることが板についているようだった。
今日は気温が高く外からは春の陽気を感じる。”青年”はこの季節のイングランドは日照時間が長く気温が高い日が多いのだと教えられた。過ごしやすい日が続き、陽光が差しこんで部屋の中も暖かくなるため最近では読書中に微睡むことがしばしばあった。
“青年”は自身の身体が”人間としての機能が正常に稼働している”のだと実感することが多々あった。空腹感があるのも、眠気を感じて欠伸をするのも、春の陽気にあてられるのもそれらは”人間として基本の機能”だと教えられた。”青年”は本部に来てから数日経ったころにヴァレンタインから『妖魅は人間と異なる部分がある』と言われたが”この身体”になってから普通の人間と異なるとわかるような事象は起きていない。基本は至って普通の人間の肉体だ。人間と異なる部分がどういうものなのか、”青年”は想像し難かった。
ソファに身体を預けて沈み込んでいく感覚を覚えてしまえば、おのずと眠気に誘われる。”青年”はこの書斎を気に入っていた。明るい彩色に漆喰の壁、植物の文様のレリーフ、四隅に置かれた石膏像、ドーリア式の柱に埋め込み式の飾り棚、その横に置かれたビューローデスクには帆船の模型と燭台と今朝取り替えられたばかりの花挿しがある。
大理石で造られたマントルピースの上にはジョセフ・ヴェルネの『漁師と漁船のある地中海の風景』が大きく飾られている。なにより更紗絨毯の上に座しているウォルナットのローテーブルと天鵞絨で張られたアームチェアが居心地の良さを増幅させている。一人で使うには些か広すぎる部屋にあらゆる書物が置かれているので読む物にも困らないので”青年”は結果的にこの書斎に入り浸ってしまうのだった。
掃き出し窓から入る風がカーテンをそよいで頬を撫でるたびに瞼が重くなっていくのを感じていると、扉をノックする音が聴こえた。
扉の向こうから声を掛けられ、意識が覚醒したので慌てて返事をした。開いた扉から現れた訪問者はよく見知った顔だった。
「やっぱりいましたね、フリストフォールさん」
“青年”——改めフリストフォールは身を捩って訪問者の方に振り向いた。フリストフォールという名前だが、ヴァレンタインが命名したものだった。フリストフォールという名は東方正教会の聖人からとったものであり、『サルバトーレ』で生まれた妖魅は全員聖人の名を与えられることになっている。フリストフォールはロシア語読みで英語読みだと”クリストフォロス”となるのだが、ロシア語読みである理由はヴァレンタインが”任地によって命名や読みが決定する”と言っていたのでそのためではないかと推察した。しかし、未だ基礎鍛錬しか行っておらず、任地も告げられていないソテルの本分である”承継”すら教わっていない状態なのであくまで憶測の域を超えいものだった。
それはさておき、フリストフォールは訪問者に一瞥をくれてやった。フリストフォールの顔を見た訪問者は不満そうに鼻を鳴らした。
「なんですかぁ?どうしてそのような顔をするのです?僕が来たのがそんなにお気に召しませんでしたか?」
「何も言っていないが」
「言わずとも、何を思っているかはわかるのですよ」
そう言って訪問者はゆっくりとした足取りでフリストフォールの向かいのソファに腰を下ろした。目尻に皺が寄る特徴的な笑顔を向けながら言葉を続けることもなく鎮座している。この男の名前はヒサノ。自分やヴァレンタインと名前の感じがちょっとちがう。名前だけでなくフリストフォールほど背丈があるわけでもなく、肌や瞳の色も変わっている。”異国”から来た人間らしい。この国よりもっと東の国で生まれたと言った。瞳も髪も黒いことや顔立ちや話し方が少し違うことなど変わっているところは多々あったが、それ以上にヒサノは他の研究員、下手したらヴァレンタインより奇異な性格をしているとフリストフォールは常々思っていた。
そもそも、ヒサノは単なる”被験者”の一人であるフリストフォールになぜか目をつけ毎日のように彼のもとに来ていることじたい、おかしなことだった。確かに妖魅でありソテルであるフリストフォールは単なる人間から見れば魅力的に見えるかもしれなかったが、他にも複数同じような境遇の者がいるのに自分にやたらと興味を示す理由がフリストフォールにはよくわからなかった。
書斎で寛いでいれば決まって同じ時間に現れ茶を飲んだり談話したりして束の間のサボタージュを終えるとまた仕事場に戻っていくという日課を繰り返していた。
「フリストフォールさん」
「何だ」
ヒサノは人差し指を天に向けながら狡猾そうな笑みを浮かべて言った。
「分を弁える、というのが真の英国人の気性ですよ?だから僕は下手なことはしないんですよ。なにせ貴方は大切な”実験対象”なんですから。必要以上の接触は試みません。フリストフォールさんは嫌だと言うのなら僕はもうここには来ませんよ」
「きみは英国人じゃないだろう」
「英国を愛し、英国で生きることを決めたなら、それはもう英国人でしょう」
心得顔で話すヒサノに自分がサボタージュするための都合のいい盾とされているんだろうとフリストフォールは思った。思ってもいないことをさも本当のことのように言うのはこの男の最も得意とすることだ。
「別にヴァレンタインから止められているわけでもないんだろう?なら、私にきみを拒否する理由もないな。好きにすればいいじゃないか」
「嬉しいなぁ。それじゃお言葉に甘えて、ゆっくりさせていただきますね」
ヒサノはわざとらしくしたり顔で言った。フリストフォールはこの男のことは嫌いではなかったので、拒否するつもりがないというのは本当だったが、だからといって歓迎しているわけでもなかった。言葉というものは裏を返せばいくらにでも解釈できる。ヒサノの返事はさしずめ雨上がりの石をひっくり返したら蛞蝓がびっしりついていたのを見てしまったかのようなものだった。自分に都合の悪い言葉の真意は読み取ろうとしない。
「そういえば、訓練の方はどうですか?順調ですか?」
足を組んでフリストフォールの向かい側のソファを占領するようなポーズでヒサノが訊ねる。
「そうだな。大抵のことは難なく出来るし特に行き詰ったところもなかった。順調だ」
「でしょうね。なんせ、”その身体”はソテルとして誂えたものですし、標準装備として高い身体能力は最初から備わってますからね」
当然のように吐き捨てるヒサノに、分かってるなら最初から訊く必要なかったんじゃないかと思ったがフリストフォールはそれを咄嗟に喉の奥に押し込んだ。
「では、あちらの”強化訓練”はまだなので?」
「”強化訓練”?」
「おや、まだ知らされていませんか。血液適合を行った妖魅が基礎訓練を終えた後は、更に肉体への適応力を高めるために強化訓練を実施するのです。最低限これをクリアしないと任務には就かせらせないので、恐らくもうすぐ開始されるとは思いますが」
「そうだったのか。まったく聞かされてなかったので、初耳だが」
「まあ、室長ですから。あの方はいつも説明不足だというか、必要なことは直前になって伝えるタイプの人ですからそんなことだろうとは思っていましたけど」
フリストフォールはヴァレンタインから直接許可されていることなら基本好きに動くことができる。逆を言えば、ヴァレンタインから許可されていないことは出来ないということでもある。被験者なのだからそういったことに関して厳格なのは仕方ないことだとフリストフォールは思っていたし、ヴァレンタインの命令に背く気があるわけでもないので特別そのことに不満は無かった。ただ己は下知に従って任務を遂行するだけだと分かっているからだ。
「ここってエスプレッソマシンないんですか?」
「見たら分かるだろう。給湯室で淹れてくればいいじゃないか」
「ここから給湯室は遠いじゃないですか。僕はいかに労力をかけずエスプレッソを飲むかということに精根を注いでるんです。即刻所長に進言しないといけないですね。全室エスプレッソマシンを設置すべきと」
ヒサノは如何にエスプレッソマシンが重要かと喃々と説くが、全室に各一台ずつでも設置すれば費用が莫迦にならないだろうとフリストフォールは思った。
「なぜエスプレッソにそこまで拘るのかもわからんな」
「紅茶や珈琲を好む方々にはエスプレッソの魅力が分からないのでしょうね。僕は紅茶や珈琲なんぞは滅多に口にしないエスプレッソ愛好家ですからね」
正直、フリストフォールは珈琲だのカップチーノだのエスプレッソだの違いがわからなかった。飲めるものなら紅茶だろうが珈琲だろうがエスプレッソだろうが拘りを持たないのがフリストフォールだった。
「今なんだか喉が渇いているんです。この紅茶、もう飲まないなら僕が貰ってもいいですか?」
ヒサノはローテーブルに置いてあった飲みかけのティーカップに手を伸ばしながら言う。許可を貰う前にすでに自分が飲むことが決まってるかのような挙措だった。
「構わないが。紅茶は滅多に飲まないんじゃなかったのか」
「あくまでも”滅多に”ですからね。今日はその”滅多”の気分だったのです」
そう言いながらヒサノは冷めた紅茶を喉に流し込んだ。ティーカップの半分も残っていなかったのであっと言う間に空になった。先刻は紅茶や珈琲を滅多に口にしないなどと言っておきながら、遠くの給湯室まで行ってエスプレッソを淹れる労力を出さない目の前の男がやはり理解できないとフリストフォールは思うのだった。
「そういえば、きみはヴァレンタインのことをどれほど知っているんだ」
「室長のことを?」
フリストフォールがふと頭に浮かんだことを何の気なしに訊ねてみれば、ヒサノは思いがけないことを訊ねられたと言わんばかりにぽかんと口を開いた。しかしすぐに心得たように笑って居住まいを正した。
「ほう、そこが気になりますか。僕は室長と同じ研究班ではありますが、僕もここに来て長いわけではないので意外と知らないんですよ。僕が来た時はすでに室長のポストに居たわけですし。他の研究員と仕事以外で親密にしているわけでもないので謎が多いというか」
ヒサノはティーカップに描かれている瑠璃唐草の浮彫を指で撫でながら言った。
「貴方から見ても、室長は”異様”でしょう?」
ヒサノの漆黒の双眸で見つめられる。正面から見るとよく分かるが、見つめ続けていると奇妙な気分になるほどの黒眼をしている。フリストフォールは何となくヒサノから視線を外して考え始めた。
フリストフォールの想像するヴァレンタインという男は、万夫不当の王者である。楽園の王として玉座に君臨している。純金の腕輪を填め、右手には林檎を象った宝珠、左手には金剛石が嵌め込まれた王笏を持ち、国の大磐石として国民から崇められている。そんな印象である。この支部の所長よりも存在感を放っており、フリストフォールはヴァレンタインが廊下を歩いているのを見るだけで底冷えするような気分になった。何より恐ろしく感じるのが、ヴァレンタイン自身は威容ではないということだ。一見そのようには見えず寧ろ愛想が良い。そのはずなのに、どこからかヴァレンタインには不思議と人を従わせる威厳というものがあるのだ。
「王だな。この支部全体の」
フリストフォールの脳内に赤い繻子の寛袍を羽織ったヴァレンタインが現れた。
「あの男には、不思議と逆らおうという気持ちがまったく起きない」
奇妙、と形容する以外思いつかなかった。反抗の二文字など出来上がる前に虚空に霧散する。フリストフォールの思惑などお構いなしだと嘲るように、”傍のヴァレンタインは只悠然と笑っているだけだった。