あの僕の国か!と叫べはしないが -山之口貘『会話』を通して
昨日から、山之口貘の詩を読み始めた。
山之口貘は、沖縄県出身の詩人である。山之口は、1900年代当時の沖縄の名門中学に入学したにもかかわらず、画家を目指して上京をし、関東大震災を受けて帰郷を経験した。その後、再び上京し、貧乏暮らしをしながら詩人として活動した。
沖縄にいるならば、この詩人の詩を絶対に読まなくちゃいけないと思っていた。そんな思いと同時に、山之口貘のことについて考えると、中高校生を過ごした母校の、ある日本語(国語)教師のことを思い出す。僕の母校では、普通の学校では「国語」と呼ぶ教科が、「日本語」と呼ばれていた。
そんな「日本語」科教員の中で、仲の良かった若手教員がいた。彼は、とてもポリティカルで、勉強家だった。家は本だらけで、坂口安吾の部屋のように、床が本や紙で埋め尽くされているのだという。そんな彼が、日本語科教員室の自分の机に常に置いていたのが、山之口貘の詩集だった。彼は、「詩人ならこれくらい生活と密着したものを書かなくちゃね」と言って、僕にも詩集を薦めた。
彼に詩集を薦められて約2年が経つか。やっと僕は詩集を開き、山之口の詩を読む。山之口を捉えた、飢えと貧しさの感覚が泥臭く刻みこまれた詩を読む。
そして、あるページで、『会話』という詩に、目を惹かれた。
山之口は、たじろぎながらタバコをくわえ、憂い顔で考える。まず琉球王朝時代から明治末期まで女性に施された「刺青」、次に「蛇皮線」(またの名を三線。琉球・沖縄の代表的弦楽器)、そして琉球瓶型につながる「染め」と、沖縄固有の文化についての連想を頭に描く。図案のような風俗とは、那覇市首里あたりの複雑に入り組んだ道や、琉球王朝時代の屏風図を想わせる。まさに、琉球・沖縄を端的に表した、とてつもない数行だと思う。
僕の目は、蛇皮線、の3文字に強く惹きつけられた。それは、僕自身が、彼が蛇皮線(三線)を弾く人間であるからだと思う。
しかし、この3文字は、目の前の言葉のはるか遠く、僕自身が去年出会った断片的な光景たちまで、想像を広げさせたのだった。
去年の10月のある日だった。僕は、モノレールの路線の下を通る、首里の大道路を歩いていた。買い物帰りかなにかか。道路を右側に、立ち並ぶアパートやお店を左側に、ぼうっと歩いていると、ある料理屋の店内に目がいった。
ほんのり薄暗い照明に照らされて、店の中がある程度見えた。客はいないようだ。夕方だし、これから客が増えていくだろうな。そんなことを考えながら店を過ぎ去ろうとした。すると、過ぎ去る直前、口を薄く開けて天井のすみにつけられたテレビを見ながら、三線を弾いている店主らしき男性が店内にいることに気がついた。
僕は帰ったあとも、自分のたまたま見た、ある料理屋の光景について何度かふわふわと思い返した気がする。あの男性の脱力感、三線を弾きながらテレビを見るという何気なさ。男性にとっては、なんでもないことかもしれない。しかし、そんな何気ない光景に、三線という楽器がすっかり溶けこんでいるということ。きっと、東京の料理屋で、店主が三線や三味線なんか弾いていたらものすごく大仰な感じがするだろう。
僕が抱いたのは、三線という歴史的な楽器が、ある料理屋の店主に抱かれて当たり前のように存在することへの純粋な驚きだった。
また、三線にまつわることとして、印象的な出会いをもう一つ思い出した。
これも去年の10月のこと。僕は、ある沖縄料理屋で働き始めた。
その沖縄料理屋で、1ヶ月前から新人として入ったSさんという男性がいた。23歳の、とても優しい人だった。沖縄の人特有のイントネーションや、スラング化した方言が自然と口から出てくる。お互いほぼ新人ということで、話をしているうちに、二人とも三線好きであることがわかった。
わかってからは話が早い。出会って数週間後に、雨の中ではあったが海近くの公園へ、一緒に三線を弾きに行った。
Sさんの演奏と歌は、とても魅力的だった。間奏と伴奏の音の強弱の付け方、細くしっとりと聞こえる丁寧な声音。一緒に弾いていてもついついSさんの歌声につられて、僕は間違えてしまうのだった。
Sさんは、嘉手苅林昌という民謡歌手に憧れて、三線を始めたらしい。それも、三線を始めたのは、東京へ上京し、大学に入学したばかりの18歳だった。今は、実家で暮らし、バイトをしながら三線、琉球語やしまくとぅば(沖縄各地の言葉)の勉強をしていると言っていた。僕は、東京にいながら、三線に取り憑かれる沖縄出身の人がいるんだ、とびっくりした。
僕も嘉手苅林昌が大好きだった。行きも帰りの車も、嘉手苅林昌の声についていつまでも語っていた。そして、Sさんの歌声は、本当に嘉手苅林昌そっくりだった。
*嘉手苅林昌の代表曲『時代の流れ』。唐(中国)、大和(日本)、そしてアメリカの世と、琉球・沖縄の歴史の移り変わる流れを叙情的に歌っている。
Sさんは、俺は嘉手苅林昌になりたいんだ、としきりに話してくれた。それを聞いて、僕は、沖縄ではけっして三線を弾くということが珍しいものとは思われないことを考えた。関東の母校にいた頃、三線を弾く機会なんかがあると、ずいぶん僕は珍しがられた。よく考えてみれば、三線という楽器を扱うだけで、関東では価値が生まれたのだ。しかし、沖縄では、三線を弾くと言うことさえ恥ずかしい。しょせんは東京生まれの人間が歌う民謡なのだと思っているのかもしれない。
よく考えればSさんは、自分が珍しがられることを念頭に三線を弾いていない。彼は、ただ、嘉手苅林昌を理解したくて、そのような人間になりたくて、三線を弾いていた。かつて沖縄で口に発された言葉をひもとくために、沖縄の言葉を勉強しなおした、と言っていたのだった。
それまでの僕は、沖縄にいながら、沖縄を自分の手では届きえない島として見ていた。Sさんは、目の前にあるものとして、沖縄をただ見つめていた。
バイトが休業になって約三週間が経った。クリスマスのバイト中、Sさんははにかみながら言っていた。
「嘉手苅林昌のやつ、タバコとコーヒー飲みながらいつも三線弾くんだってよ。くーっ、おれもあいつみたいにさーゆ(白湯)、飲みながら弾くやっさ。」
『会話』も、最終連になると、山之口の訴えかけるような声が響く。
沖縄を、間接的には自分の出生を、驚かれるという出来事。驚きとは、予想外の出来事を経て起こる感情だが、一方的な驚きは、単なる無理解から起こることが多い。
沖縄の人は何気なく濃い方言でしゃべり、嬉しいときはみんなで三線弾いてカチャーシーも踊って、亜熱帯的な生活をしている。そんなステレオタイプな沖縄のイメージは、いまだ強いだろう。
だが、東京出身の僕が、沖縄で出会う人々の中にはけっしてステレオタイプでは捉えきれない複雑さを持っている人がいた。沖縄の方言はなんだか乱暴だから、標準語で喋ろうと必死に心がける人。こちらが沖縄の人かと思ったら、ネパールから沖縄へ働きにきた人。沖縄で生まれたが、親が転勤を繰り返し、沖縄出身なわけではない人。
沖縄は、思ったよりも多様で、複雑に入り組んでいる。いわゆる“沖縄の人”ではない人たちも、今の沖縄を形作っている面が見えてくる。
しかし、一方で、前述したように何気なく三線を手にしている人や、道の真ん中で空手をする人も存在するのである。沖縄では、人々に共有された文化(音楽、武術、絵画etc)の中に、琉球・沖縄の根っこのようなものが確かにあると感じる。
琉球・沖縄固有の文化とされる手法を織り交ぜて表現をする人間にとっては、沖縄的な要素を根(基礎)として、どのように個性の枝を伸ばし、葉をつけていくかが重要なように思う。それは、自分という個人の居場所のなさと、沖縄という土地の複雑性を衝突させるところから立ち現れていくように思える。そのような衝突の現場が、新しい沖縄の表出する現場となるのではないか。
ある料理屋の店主のような男性や、Sさんのように、いかにも沖縄の人々が沖縄を形作っているように見えることがあるのかもしれない。しかし、そのような人たちも、さまざまな屈折を経て、再び沖縄と出会い直したという複雑さを持ちながら生きているのかもしれない。生まれたときから、沖縄や琉球の文化とともに生きていくことが約束されていたわけではないのである。
沖縄に住んでいる僕も、今このとき、沖縄を形作っている一人なのだ。当たり前のことだが、東京出身という自分と、沖縄に住んでいる自分という二つのアイデンティティの衝突を見つめていきたいと思う。
僕には、山之口のように、沖縄を「僕の国か!」と叫ぶことはできない。しかし、異人であることを意識しつつも、新しい沖縄が形作られる現場に立つ一人の人間として、「目の前に見える亜熱帯」に参加していきたい。
僕は、沖縄を内部から見る目と、あくまで東京で生まれ育った人間としての目の両方を持って、沖縄で暮らしていきたい。そのような姿勢を、山之口の詩が、背中を押してくれるような気がする。