否定する恐ろしさがわからない人間がわからない非人間。
「こんなこと言いたくないんだけど」
「別にディスるわけじゃないんだけど」
これを前置きにする言葉はずるい。そう思うなら言わなければいいと思ってしまう。
これらは水平思考をする前に声に出てしまっていると、私は思うんです。常に自分から湧き出す選択を「〜かもしれない」と自分で打ち切れる人はかなり少ない。と私には見える。感情にコントロールされすぎているとも言えるかもしれない。
あー...みっともない。つい頭の中で漏れてしまう。
「いや、でもさ」
「いや違う」
これが反射的に出てきてしまう方も、同様。相手の話を聞いて一旦飲み込む、繰り返し繰り返し咀嚼して、相手の意見を否定せずに自分の意見を混ぜる。溶け合わすように対話できるか、相手の腹に投げ合うだけの会話か、ここで違いが生まれると常々思う。
堪える姿勢と秘める魅惑さ。これが私の美徳だからそう感じとってしまうだけかもしれないのだけれど、毎日毎日この手の忌々しさを体感する人間がここにいるのですから、誰かしら世の中には私と同じ触角を生やして生きている人間がいるはずです。こんな敏感な触角は千切れてしまえば幾分か楽なんでしょうけれど、私はそうなった自分を想像してしまうと、あまりに愚かで無様で吐き気を催すほど嫌らしいので、私は一生この長い長い触角と生きていかなくてはならないらしいのです。
人様の言葉遣いに棘を向けるのはどうなのかしら、と自分がわからなくなることも多々あるけれど、個々にとって醜い言葉遣いがあるのは仕様がない。
私にとって「否定する」という行為が恐ろしいのに、どうして他人は簡単に「否定」という手札が切れるのか不思議でならない。相手が不愉快そうな顔をするかもしれない、そう考えるだけで恐ろしくて恐ろしくて否定などできそうにない。まったく愚かだ。わかっているんです、世の中にとって簡単な行為ということは。
私は、風を見て、静かに息をして、たまに自分の手を見て、自由に眼を閉じれて、一言二言だけ重要そうに、おはようを言う。
そんな平和があればいいだけなのですが、人との営みは、そうもいきませんね。生きにくさがあるから上記のことが幸福に感じているんだとすれば、やはり生きにくさも否定も必要ということですが、私はやはり、否定がわからず怖い。