大人五歳と靴。
寒ささえ感じる涼しさの到来に不思議な懐かしさを覚えるのは今年に限ったことではない。十月に生まれた私だから秋の匂いに敏感なのか、夏が終わった瞬間の外気の匂いは鼻をするりと潜り、全身に心地よく浸透する。波のない水面にインクを一滴落とした画のように美しく心は舞うが、感触のない冷たい羽毛が包んでくれたと錯覚するほど秋は優しく訪れる。
当月の六日を迎える二日ほど前の、二冊の文芸書を買って書店から出た瞬間のあの匂いは忘れらない。
私事ではございますが、誕生日を迎え二十五になりました。欲しかった本に出会えたり、美味しいお食事をしたりと、ほんとうに幸せに満ちた当日となりました。前回の更新から十七日も経ってしまいましたけれど、こうして今書けているのも誕生日という非日常感を楽しめた証でしょう。
去年の誕生日、二十四を迎えた年に母から村山由佳さんの『二人キリ』という小説をプレゼントしてもらったのですが、年を跨ぎさらに半年以上経ってから開いてしまい、これはせめて二十四歳のうちに読み終わらなければという焦燥感を抱いて、自分で尻を叩いてでも本を開かせましたら、何故今まで読まなかったんだと、それこそほんとうに尻を叩いて叱ってやりたいほどその文章に吸い込まれ、されど取り溢さぬよう咀嚼しながら丁寧に読み進めたのを覚えています。
誕生日を迎えるまでに無事読了し、余韻に浸りすぎて次の小説に手を伸ばせず、気づけば二十五を迎える今まで小説は読んでいませんでした。エッセイ本は暇があれば時折開いておりましたけれど、小説とご対面する前はどうしても身構えてしまって、いつもなかなか積読を消費できません。
また一つ歳を重ねた今、いままで読んでこなかった時代の小説に手を出し、苦戦しながらも楽しんで読み進めております。
成人して五年。大人五歳。
私と共にその月日を歩んだ物が自室で私を囲んでいる。この指先が直に触れていた時間は集約しても儚いほどのものでしょうけれど、私と同じ景色を、いえ、私以上に見ていたかもしれない靴がある。記憶は定かではないけれど、たしか二十歳の頃だったように思う。無理して買ったドクターマーチンのウィングチップの紅い革靴。硬い靴底に馴染まない足裏が疲弊して、お洒落背伸びをしていた跡が帰宅後に響いたのも懐かしい。
こだわりのない幾つもの靴下で足を通し、時には裸足を守ってもらったこともあった靴の中は次第に経年変化し、私の足の形だけが心地良いように馴染んだ。底にある汚れや歪みは私にとって愛しさそのものであり、恥じらいもなく相棒とさえ呼べてしまう。この五年の間に私の生活はガラリと変わったのだ。病気さえ患った監獄のような場所から、自分の帰る場所と思えるとこへ住所ごと変わったのだから、苦も幸も見てきたこの革靴は間違いなく相棒だ。
最近ではようやく靴下にこだわりはじめ、黒ずんだ白い無地の靴下とはお別れした。共に大人五歳を迎えた相棒と脚をお洒落に飾り、私の目も行き交う人の目にも魅せながら私らしく歩いていたい。
思えば愛用している万年筆もこの五年の間に出会って手に馴染んでいる。初めてペン先を紙に滑らせた日から時を経て、もう何万文字書いてきたかわからないけれど「君を握れば何でも書けそうな気がする」と思えるのは今も変わらないでいる。
スマホひとつで問題なく且つ便利に文章は書けてしまうけれど、紙を置き、ペンを持ち、キャップを開け、添える左手とやや左に傾く顔を軸に、線を織りなして何かを生み出す右手。この動作ひとつ一つが趣を感じさせ、簡単な言葉ひとつに心も宿る心地がする。勉強机という懐かしい響きが日常になくなった今でもこれを尊ぶことのできるのは、文学のおかげであり、この万年筆のおかげである。
この万年筆を買いに出掛けた過去の私も、ドクターマーチンのこの革靴をお召しになっていた。わざわざ特別を意味して選んだわけではなく、何も考えないとその相棒(革靴)に足を入れてしまうだけのことなのだけれど、夜になるとお風呂に入るのと同じくらいの当たり前と化していたことに、書きながら再認識してつい頬が緩む。
こんなに愛でていては毎日のように仕事で履いているスニーカーに嫉妬されてしまうかもしれないけれど、つい先日、革靴のメンテナンスと一緒にそのスニーカーのインソールまで取り出して中を掃除してやった。知らない間に穴が空いている部分もあったけれど、もうボロボロだとは不思議と思わず、愛着心だけが湧いてそっとインソールを戻した。中だけ変えてまだまだ履こう。もう履けなくなった思い出の靴の隣に並ぶその日まで。