<自殺するほどマジでやっている>マーク・フィッシャーと鬱病

鬱病患者というものは、つねにあるひとつのことに自信をもっているものである。つまり、じぶんにはなんの幻想もない、ということに。                   (わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来)

マーク・フィッシャーはイギリスの若者が政治に無関心であることについて、それは「再帰的無能感」の問題である、と述べている。「再帰的無能感」それは無関心でもなく、冷笑主義でもなく、事態に対してなす術のないことに対する「了解」のことだ。

 

2009年に出版されたフィッシャーの代表作『資本主義リアリズム』には「この道しかないのか?」というサブタイトルがつけられている。「この道」というのはもちろん資本主義のことであるが、彼が「資本主義リアリズム」と呼んだのは既存の資本主義に対するオルタナティヴ無き現状によって直面している無力感と閉塞感のことである。そこから脱するには「この道」以外の道を模索する必要がある、というのがフィッシャーの目指すところとなっていたわけだが、彼は2017年の1月に自ら命を絶った。自身を苛む鬱病と闘い抜いた果ての死である。

 

資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方が容易い

 そう述べていたフィッシャーは自らの死をもってしてそれを証明してしまったかのようだ。

 

「フィッシャーが語る自らの鬱」

My depression was always tied up with the conviction that I was literally good for nothing.(私の鬱病はいつも、文字通り自分は何の役にも立たないという信念と結びついていた。)

 

フィッシャーは2014年の3月に『Good For Nothing(何の役にも立たない)』という表題のブログで自身の鬱病について以下のように述べている。

「私が自身の精神的苦痛について語るのは、それが何か特別でもの珍しいものであるからというわけではない。多くの鬱は個人という枠組みや心理学的な枠組みではなく、非個人的で政治的な枠組みを介したほうが理解されやすく、また闘えるという主張を支持しているからだ。」

この主張とは『資本主義リアリズム』の第四章「再帰的無能感、現状維持、そしてリベラル共産主義」の冒頭で語られる内容のことだ。

再帰的無能感というのは、イギリスの若者に共有されている暗黙の世界観であり、〔社会に〕普及した多くの病理と関係している。

鬱病は風土病である。イギリスの国営医療サービスが取り扱う疾患のなかで最も多いものであり、ますます若年層を苦しめている病気だ。驚くべき学生の数が、なんらかのタイプの識字障害を抱えている。現在、後期資本主義のイギリスにおいて「ティーンエイジャーである」ことが、もう少しで病気の一種として再定義されてしまいそうな状態だといっても過言ではない。この病理化によって、政治的な取り組みの可能性は予め除外される。そして、このような問題を自己責任化すること、すなわち、問題の原因が家族背景ないしは個人の脳神経系における化学物質の不均衡のみにあるとみなすことによって、社会制度にまつわる因果関係の追及は度外視されてしまう。(『資本主義リアリズム』)

 

自分はこの冒頭を読んだ際、自らの鬱病に関する考え方が根底から覆された気がした。どうしてこのような単純な事実に気が付かなかったのだろうという思いと共に、自らがこれまで社会の中で必死にもがいていたという経験は、世間の型に合わせるため、自らの変容を受け入れることができたという諦念(迎合)にすぎなかったのだと思い知らさせた。ではもしそれができなかったとしたら?善良な我々はまず自らを責めるはずである。鬱はそうして生れる。では鬱を解決するものは一体なにか、それは自分自身でもなく、気休めの言葉を投げかける精神科医でもない。問題は自己責任型のこの社会にある。

このようにしてフィッシャーは、我々を取り巻く資本主義社会がもたらす曰く言い難い憂鬱に的確な表現を与えてきた。ではその憂鬱を乗り越えるために進むべき道とは?しかし立ちはだかるその壁(資本主義)はあまりにも高く、そして硬い。その壁を壊すより、世界を終わらせることのほうが容易いのだ。つまり「この道しかない」のである。

 

ジョイ・ディヴィジョンと鬱病

『わが人生の幽霊たち』ではジョイ・ディヴィジョンというバンドとそれを取り巻く「鬱」についての考察がある。

まずジョイ・ディヴィジョンというバンドについて簡単に紹介すると、1976年にイギリスのマンチャスターで結成されたポストパンクを代表するバンドである。ピーター・サヴィルによる美しくもどこか静謐な闇を感じさせるアートワークを体現するかのように、そのサウンドは暗く、人々の不安を助長させ、哀しみをもたらす。そしてフロントマンであるイアン・カーティスによる絶望の歌声は多くの苦悩に喘ぐ若者を引き付け、カルト的人気を獲得した。無機質な演奏に合わせて吐き出されるイアン・カーティスの言葉は重く沈み込み、内なる苦悩そのものを体現しているかのようである。事実、彼は1980年5月18日未明、台所で首を括っている。それは23歳という若さでのことである。現場のターンテーブルにはイギー・ポップの『Idiot』がかかりっぱなしであった。

 イアンは、まるで若いうちにもう一生を生きてしまっているかのような印象を与えた

妻デボラ・カーティスのこの言葉をもとに、ジョイ・ディヴィジョンを聴くとその意味がわかる。地の底から這いあがってくるかのような深い絶望そのものであるイアン・カーティスの声は、とても23歳の若者から発せられているとは思えない。その絶望の根源こそ「鬱」である。

マンチャスターの労働者階級出身である彼らは、1960年代のイギリス社会がもたらした近代化という断絶の中で青春を送ってきた。「喪失」が人々を苛み始める時代である。その「喪失」について、ギターを担当していたバーナード・サムナーは以下のように答える。

皆がジョイ・ディヴィジョンの音楽の暗さを指摘しますが、22歳になるまでに、僕はかなりの数の喪失を経験していた。暮らしてきた場所とか、幸せな記憶が詰まった場所、そんなものはもう全部なくなってしまいました。残ったのは化学工場だけです。いまではもう気づいています、幸せだったころにはもう戻れない。だからぼくたちの音楽には、そういう空虚があるんです。 (わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来 101頁)

社会の変化が生む憂鬱というのは明確な絶望の原因がない。そうして生れる鬱病患者はその空虚さに於いて自身に絶望するが、空虚であるがゆえにその実態はない。そして実態なき者に居場所など存在しないのだ。そうした意味で暗く憂鬱なジョイ・ディヴィジョンは絶望の顕現であり、死の必然性を示す真実そのものであったわけである。

 

自殺するほど「マジでやっている」

自殺は正当性を保証するものであり、その人物がどれだけ<マジでやっている>かを示す、もっとも確かなしるしだった。自殺は人生を、その日常的な窮地も、その軋轢も、その葛藤も、その幻滅も、未完成な仕事も、「空費と激情と熱意」も、そのすべてをふくめて、冷たい神話へと変える力をもっている。 (『わが人生の幽霊たち』)

 多くの自殺者は何かをやり残したままだ。まるでテレビをつけっぱなしにしたまま買い物にでも出かるように、彼らはこの世界を後にする。マーク・フィッシャーも、イアン・カーティスも、妻子を残し、そして完遂すべき多くの仕事を残したまま死の道を選んだ。彼らは鬱に負けたのだろうか?おそらくそれは違う。鬱に対して<マジでやっている>ことを示すために死を選んだのだ。ただそれは逆説的に、後期資本主義という巨大な閉塞感による鬱が、人を死に追いやるほど<マジ>なものである証拠でもある。このようにして、資本主義のオルタナティブは神話の世界へ昇華されてしまった。ジル・ドゥルーズは自宅の窓から身を投げ出して死んでしまったが、我々がすべきなのは死せずして窓の外へ身を投げることである。落下し続ける我々を待ち受けるものは何か、それは『資本主義リアリズム』の締めくくりのように、どうにもならないと思われた状況からこそ、突然にあらゆることを再び可能にする何かである。


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