進学と選択
進学と選択
人生の境目を振り返ると、自分がどんな人間かわかる…ような気がする。ここでは、受験生三人分の働きをした、僕の大学受験の話をしよう。
僕が通っていた高校は、いわゆる進学校だ。公立ながらも中高一貫校だったため、高校受験は知らぬ存ぜぬ。他所の中三が必死に勉強していたであろう頃は、高校生に混じって部活動に励んでいた。そんな僕も、ついに受験と向き合う時が来た。そう、大学受験だ。隣国は日本よりも大学戦争がエゲツないらしい。よく知らんけど。言い忘れていたが僕は特進クラスという、進学率を高めることを目的とした学級に属していた。もちろん僕も、進学組だ。
進学となると、当然大学を選ばなくてはならないが、これは僕にとって難題だった。叶えたい夢がなかったのだ。夢がないと、やりたいことや、なりたい姿が浮かんでこない。つまり、何を学ぶために、何処に進めば良いかワカラナイ。だから僕は、手っ取り早く、カッコイイと感じた人を思い浮かべてみた。それは小学校の先生だった。理由はイロイロあるが、道草になるためここでは割愛する。
さて、なりたい姿は頭に浮かんだ。あとは実現するための手段を考えるだけだ。小学校の先生になるには、小学校教員免許を取得すれば良いらしい。なら進学先は一つ。免許を取って、先生になれる大学だ。
当時の状況について補足すると、特進クラスにいながらも、僕は勉強ができる方ではなかった。受験生が1000人いれば、990人くらい願うであろう現役合格。多分に漏れず、僕もそうだった。だからあくまで、自分の学力に見合う大学を選んだ。
そうなると、候補に挙がったのは以下の三大学だった。
①北陸にある、国立の教育大学(前期)
②公務員になりやすい公立大学(中期)
③教育に強い県にある、国立の総合大学(後期)
ここで基本的な情報をおさらいしておくが、大学受験はセンター受験→二次試験(前期→中期→後期)の順で進む。推薦などあろうものなら勝ち確、それが大学受験だ。前期で夢破れし者が中期へ、中期で滑りそうなものが後期でも踏ん張っておく、そんな仕組みである。中期と後期の結果発表はほぼ同じ時期に発表されるので、中期で受かればいいや~という考えは甘い。前期で受からなかった者は、泣く泣く後期まで走り続けることになるのだ。もちろん、偏差値は前期〜後期にかけて右肩下がりになるのが一般的な傾向である。前期に落ちてしまいもう後がない癖に、より偏差値が高く、受かる確率は低い大学を選ぶ、そんな自ら首を絞める物好きはそういない。だがしかし、僕は物好きだったらしい。僕の偏差値は後期受験にてピークを迎えたのだった。
何故こんな受験をしたのか、たまに友人にも聞かれるが、別にこれといった理由はなかった。冒険がしたかったわけでもないし、挑戦しようとかそんな気概もなかった。するんだったら前期でしていないとおかしい。後期受験で挑戦とか言ってる奴がいたら生粋のギャンブラーか、前期に落ちたショックで自暴自棄になっているヤケクソ受験生だ。僕の場合は、安全な道を選ばなかったというか、選べなかったのだ。結果的に先生にさえなれるのであれば、過程はどうでもいい。真面目にそう考えていたが故に、僕は進学先選びにそこまで時間を充てなかったのだ。因みに中期で国公立かつ先生を目指しやすい大学となると、選択肢はほぼ一つしかなかったので、そこは僕の怠慢ではあるまい。
とはいえ僕もバカではない。合格したい一心は東大合格を目指す受験生にも決して劣らなかっただろう。だからこそ、後期受験では倍率が低いと思しき学科を狙った。それこそが国語科である。もともと英語が好きだった僕は、せっかくなら英語の教育について学びたかった。しかし当時、英語は世間でも結構注目を集めていて、留学とかしちゃう輩も結構いた。だったら英語科は人気でしょう。比較的安全に受かるなら国語科一択、間違いない。国語科の受験を申請した僕はその時、名探偵を気取っていた。
結果、どうだったか?英語学科の後期倍率は7倍、国語学科は14倍だった。名探偵気取りの僕はその実、ホームズの横で稚拙な推理を披露するワトスンだったのだ。倍率が開示された時は流石にワトスンも焦った。倍じゃん、終わりじゃん、と。だが後期日程は面接のみ。どうしようもないので、学校で実施されていた面接対策以外、僕は何もしなかった。
間延びしてしまったので、結論から言おう。僕は実に三人分の働きを成した。前・中・後全ての受験を見事制し、我が母校の大学合格率を押し上げたのだ。
ではどこに進学したか?僕の進学先、それは後期で合格した総合大学だった。理由は簡単、消去法である。ざっくり言うと、前期と中期の大学には行きたくなかったのだ。主に地理的な条件で。
前期の教育大学は受験当日に合格を確信した。実技試験にて、走り幅跳びなどほとんどやったことのない僕が跳んだ瞬間、歓声が挙がったのだ。良くない意味で、ヤバい。あまりにもレベルが低い。しかもその大学は、雪深い地域にあった。受験当日も雪が積もっていたのをよく憶えている。最寄り駅前はシャッター街。並ぶシャッターはどれも、日本海の塩害によって赤錆びていた。受験前、朝方駅に到着した僕は思った。「スナックとか飲み屋とかが多いから昼間は静かなんだな」と。受験後、帰りの電車に乗るため夕方に駅前に来た僕は思った。「朝見た時と風景が変わってない」と。僕はこの地で四年間を過ごす自信がなくなった。移動は面倒だし絶対退屈じゃん、そう思ったのだ。電車に乗り込んだ僕は、合格したとて、ここに進学したくないと、親に伝えることを決心した。本能が目的を上回った瞬間である。
大学受験のシステム上、前期の受験結果を知る前に、中期と後期日程に臨む必要があった。正直、どちらの日程も受けた感覚で合否はわからなかった。ただ後期では、面接時にとある日本の小説家をボロクソに貶し、ツルゲーネフの猟人日記抄が面白いと話したので、面接官だった大学教授方の印象には残れたとは思っている。
そんなこんなで無事後期日程を終えた僕は、確信した通りに前記の合格通知をもらった。しかし僕は、あの地で、あの大学で四年間は過ごせないと感じていたのだ。
とはいえ、欲しかった国立大学への切符、先生になるための環境もあるにはある。流石に僕も中期・後期の受験結果を待つかどうか悩んだ。
前期の合格を蹴るか否か、ついに訪れた運命のXデー、親に向かって僕は、生まれて初めて土下座をした。前期を蹴って、中期と後期の合格に賭けたのだ。実は二つ上の兄が東京の私大に進学したため、家庭の金銭的有余から、僕の進学先は国公立大学に限られていた。そのためこの土下座は、生まれて最大の山場にて大博打、ポーカーで言うところのオールインである。手札もわからぬままに。
捨てる神あらばひろう神あり。いつ捨てられたのかは知らないが、こと大学受験において、僕は拾われまくった。なんと、中期も後期も無事合格だったのだ。中期の大学は富士山近辺にあり、移動手段がローカル線、これはこれで面倒だったので、謹んで辞退した。そこで僕は後期日程で受かった大学を選んだ。聞き及ぶと、中高一緒だった友人たちも同じ大学に行くとのことだった。というか、ぶっちゃけこれが決定打である。
こうして、長く辛い僕の受験戦争は終結した。結果的には大団円。人の倍時間がかかったが、大学受験自体は納得のいく幕引きである。
この一見ハッピーエンドな話を振り返ると気がつくことがある。それは、僕の選択は常に他人任せということだ。誰かがこうあるから、僕もこうありたい。誰かがこれをしたから、僕もやってみる。大体こんな感じだ。言っちまえば、人の真似事である。
そして他人がいない、独りの時に限って、自分で意思決定をする。その意思決定は、本能に従ったものだ。思うに人の本能は、頼れるものがもうそれしか残っていない時にだけ、姿を現すのではないだろうか。
僕は他人任せな自分が好きではない。考えることから逃げていると感じるし、何より自分が何者かわからなくなるからだ。だからこそ、独りの時間を大切にしたい。そして自分で決めたら、その決断を尊重したい。決断の後で、なにか悔やむことがあれば、めちゃくちゃ腹立たしい。自分が間違えたみたいで嫌なのだ。それでも誰かに判断を任せるよか、よっぽどマシだ。宙船の歌詞は秀逸である。
自分で考えること、決断することを大事にしていきたい。月並だが、つまるところ僕が言いたいのはコレに尽きる。
そうそう、大学卒業後、結局僕は小学校の先生にはならなかった。それはまた、別の折に語らせていただこう。
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