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「いじめられる側にも原因がある」という言説について、その本当の問題点とは

note巡りをしていたら、このテーマを書いている記事を見つけて、そこから、興味がわいて、「いじめられる側にも原因がある」という言説について、いくつかの記事を読んでみた。

そこで、この話題について、考えてみたことを書いてみようと思う。

ある記事によると、「いじめられる側にも原因がある」という主張に対しては、「そんなはずはない、加害者が100%悪い」といった批判があるとのことである。
別の記事では、「いじめられる側にも原因がある」はずで、そうでなければいじめられる側にも問題があるのに、被害を受けた側が、一方的な被害だと思いこんでしまうからそれではだめだといった趣旨のことが書いてあった。

以下は、完全に個人的に思ったことなので、もしかしたら、批判や反論があるかもしれない。
普段はそういう波風が立ちかねない記事はあまり書かないけど、今回は、少し考えてみることにする。

一言でいうと、私は、この「いじめられる側にも原因がある」問題については、議論がかみ合っておらず、「いじめられる側にも原因がある」という言説の本当の問題点がどこにあるのかが、共有されにくくなっていることが一番の問題だと思っている。

どういうことか?

この問題でよくある話では、「いじめられる側にも原因がある」かどうかについて、いじめの原因について掘り下げ、加害者と被害者がどちらが悪いのかを検証し、議論をしている。
例えば、①被害者にも非があるのだから「いじめられる側にも原因がある」ということに対して、②いや、いじめというのはいじめた側が100%悪いのだから「いじめられる側にも原因がある」なんて言えるはずがないと反論する。それに対して、③そういうことをいうから被害者を甘やかしてしまうのだといった再反論がなされることがある。

たぶん、こんな流れが多いのではないかと思うけれど、個人的には、この①~③の流れ自体が、本当の問題点をわかりにくくしてしまっているのではないかと思ったりしている。

以前、別のnoteの記事で、どのような問いを立てるべきか、問いの立て方がうまくいったとか、うまくいかなかったとかいうようなことを書いた気がする(書いてないかもしれない)。
とりあえず、私は、noteで自分の意見めいたことを書くときは、「どんな問いを立てるか」ということは結構気を遣っている。記事がうまく書けなかったなあと思うときは、「問い」がうまく立てられていなかったことが多い。
「問い」自体の解像度が低いと、問いに対する検証がかみ合わなくなってしまったり、回答が薄くなってしまったり、掘り下げていくうちに、なんかそういう話じゃないんだよなぁという方向に行ってしまうことがある。

そんなわけで、「どんな問いを立てるか」というのはある意味、問いの回答をつくるより重要なんじゃないかと思ったりもする。


では、「いじめられる側にも原因がある」問題の本当の問題点とは何か。

それは、

「いじめられる側にも原因がある」という言説が「いじめ」を正当化する「おそれ」があるのではないか


という問題点ではないかと思う。


少し敷衍してみようと思う。

まず、一つ、前提となるテーゼを敷いておく。

それは、「『いじめ』は、絶対にしてはいけない」というテーゼである。
以下では、これは、前提にさせていただきたい。
以下では、「いじめはやってもいい」とか「いじめはやってもいいときがある」といったテーゼはとらない(実際のところ、私は、「『いじめ』は、絶対にしてはいけない」と思っている)。

そのうえで、「いじめられる側にも原因がある」という言説には、いじめを正当化するおそれはあるだろうか。

私は、おそれがあると思う。

というのも、「いじめられる側にも原因がある」と考えたとしたら、「じゃあ、いじめてもいいんじゃないか」という心理が働きやすいということはいえるのではないかと思う。いや、それとこれとは話が別だから、「だから、いじめてもいい」となるはずはない、そんな人もいるかもしれない。それは、その人がそう考えるのであれば、その通りだし、それがいいと思う。

でも、だからと言っていじめてもいい心理が働く「おそれ」がないと言えるのだろうか。

私は、「おそれ」はあるんじゃないかと思う。言い換えれば、いじめてしまった人が、「相手に非があるから、自分はいじめてもよかったんだ」と思って自分を正当化してしまうケースは、容易に想像できそうだ。

で、いじめが正当化されるおそれが生じたら、どうなるか。

いじめが起こりやすくなってしまう。

先ほどの、「『いじめ』は、絶対にしてはいけない」というテーゼに抵触しかねない。

これが、「いじめられる側にも原因がある」という言説の本当の問題点なのではないかと思う。

別の言い方で少し考えてみる。こんな例

Ⅰ AさんがBさんをいじめたとする。
Ⅱ AさんがBさんをいじめた理由が、Bさんが先に「Aは〇ね」などと誹謗中傷を言ったからだとする。
Ⅲ じゃあ、AさんがBさんをいじめることは正当化されるのか?

私は、正当化されないと思う。先ほどの、「『いじめ』は、絶対にしてはいけない」というテーゼに抵触してしまう。


さて、ここで「いじめられる側にも原因がある」問題において、本当の問題点である(と私が思っている)Ⅲが分かりにくくなっているというのは、どういうことか?

それは、問いの立て方を以下のようにしてしまっているからと言えないだろうか。

Ⅰ AさんがBさんをいじめたとする。
Ⅱ AさんがBさんをいじめた理由が、Bさんが先に「Aは〇ね」などと誹謗中傷を言ったからだとする。
Ⅲ´ じゃあ、「いじめられたBさんにも原因がある」のか?

この問いを立てることによって、検証の様相が変わる。この件について、AさんとBさんのどちらに非があるのか、みたいな感じの議論になる。Ⅲ´の問いが立てられることで、本当の問題点である(と私が思っている)Ⅲが分かりにくくなってしまっているのだ。

先ほどのテーゼを前提にすれば、どちらにしたって、AさんがBさんをいじめてしまうのはダメなのだ。そして、Ⅲ´の問いは、この言説の本当の問題点をわかりにくくしてしまっているんじゃないだろうか。

だから、「いじめられる側にも原因がある」という言説の本当の問題点は、その言説が、「いじめ」を正当化してしまうおそれがあることだと思っている。少なくとも、「いじめられる側にも原因がある」問題を議論するにあたっては、このことを認識しておく必要はあるんじゃないだろうか。

さて、この問いの立て方を共有することでもう一つの問題が見えてくると思う。改めて先ほどの例を使ってみると

Ⅰ AさんがBさんをいじめたとする。
Ⅱ AさんがBさんをいじめた理由が、Bさんが先に「Aは〇ね」などと誹謗中傷を言ったからだとする。
Ⅲ´´ じゃあ、Bさんが先に「Aは〇ね」などと誹謗中傷をいったことは正当化されるのか?

私は、正当化されないと思う。誹謗中傷は、相手を傷つける行為だから、ダメだと思う。また、BさんがAさんに言った誹謗中傷は、これもまた「いじめ」のはずだ。先ほどの、「『いじめ』は、絶対にしてはいけない」というテーゼに抵触してしまう。

ここにおいて、何が問題点なのかが見えてくる。
つまり、相手に非があろうが、なかろうが、「『いじめ』は、絶対にしてはいけない」。相手に非があったとしても、「いじめ」が正当化されるわけではない。AがBに対してした「いじめ」もダメだし、BがAに対してした「いじめ」もダメだ。Bがいじめられたからといって、その前にBがAに対してした「いじめ」が正当化されることはない。
そして、「いじめられる側にも原因がある」という言説は、いじめを正当化してしまう「おそれ」を作ってしまう。言い換えれば、「『いじめ』は、絶対にしてはいけない」というテーゼに抵触してしまう「おそれ」を作ってしまう。

さらにいうと、こういうふうな整理をすると、「いじめられる側にも原因がある」問題自体の立て方や検証の仕方も変わる。

「『いじめ』は、絶対にしてはいけない」
のだから、いじめられたとされるBについて問われるべき問題は、Bが先にAに対してしたことが「いじめ」だったのかどうかということになる。
このように、A→Bに対するもの、B→Aに対するものと個別に分けてそれぞれの「いじめ」があったかを検証し、それが「いじめ」なのであれば、それをなくすことを考えるという順序で検討した方が良いんじゃないかと思う。
そうすると、検証されるべき次の問いは、AがBにやったことが「いじめ」なのかとか、あるいはBがAにやったことは「いじめ」なのかということが次に来るはずである。そうすると、そもそも「いじめ」とは何なのか、という問いに行きつくかもしれない。

このように、「いじめられる側にも原因があるか」という問いは、もっと問い自体の解像度を上げてアップデートさせたり、展開させたりする余地があるのだ。

個人的にはそんな発想でこの問題は、掘り下げていったほうがいいような気がしている。

そんなわけで、問いの立て方についてあれこれ考えてみて、「今日一日を最高の一日に











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