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書くことは孤独。だからこそ、書いてみないとわからない。
最近長文化の傾向が激しすぎるので、たまには、ライトに1000字~2000字くらいで終わりにしたいとおもっています(笑)
考察記事とか読書感想文とかを書いています。
結局、こういう文章は、人様の作品ありきの文章です。人様の文章を読んで、良いと思ったことや面白いと思ったことを文章にするそんな乗っかり行為です。
この前は、モノカキングダムの入選作品を過剰に考察する記事を書きました。
気持ちよく書かせていただき、ありがとうございました。
今回はそんななか、ひとつ気づいたことを書いてみようと思います。
考察記事も読書感想文も、その文章が良いよ!ってことを紹介するというのが基本スタンスです。その作品や本を知った人がそれを読んで、知ってもらって、結果、もし読者が増えたら、めっちゃ嬉しいです。
でも私の場合の目標は、まずその文章を書いた人に喜んでもらいたい。本の作者に喜んでもらいたい。そんなふうに思っています。
意見を述べたり、批判的なことを述べる文章であれば別かもしれません。そういう文章も必要です。
しかし、この文章が良いよ!という考察やレヴューであれば、作者に喜んでもらえることが一番のような気がするのです。
少なくとも、作者はある程度の負荷と勇気を掛けて、その文章を何らかのかたちで世に出している。そんな作者にまずは敬意を表したい。
そのうえで、称賛したり、意見を出したり、時には批判をしたりするのは全然いいんじゃないかなって思います。
ひとつ気がついたことがあります。
それは、文章を書くのは孤独な作業だということ。
どんなパターンでも文章を書いている瞬間は究極的には孤独です。たとえば、共作していたとしても、ある文章のある部分を書くその瞬間は、一人による作業のはずです。
noteを読んでいると本当にいろいろな人がいろいろな文章を書いています。書き手には、いろいろなバックグラウンドがあると思います。家族と一緒に過ごしている方、一人暮らしの方、何か悩みを持っている方、日々忙しく過ごしてしている方……
それでもなお、文章を書こうとする瞬間。
この瞬間は、誰もが孤独です。
ペンと紙の前か、パソコンの前か、スマホの前か、そういった違いはあるかもしれないけれど、その瞬間は孤独です。
noteだと、特にコミュニティが盛んです。そのコミュニティで、コメントし合ったり、メンバーシップを作ったり、共同マガジンをつくったり。
それでもなお、文章を書く瞬間だけは、孤独です。
デスクやパソコンの前で必死で書いたり、タイピングをする姿、唸る姿、ニヤニヤしている姿、頭を掻きむしっている姿、うしろで子供に邪魔をされている姿、たばこをふかしている姿、コーヒーをすすっている姿……
書く瞬間。だれもが、その瞬間は孤独で、その中で言葉を紡ぎ出している。
これってすごいことなんじゃないか。いろいろな文章の感想を書いていて、そんなことを思うようになりました。
そうして何が言えるのか。
文章を書く瞬間は、孤独――
そのときの書き手が何を考えているのか、それは本来誰にもわからないはずです。
でも、それはあるところから垣間見えるような気がしています。
それは、その人が書いた文章そのものです。
もしかしたら、そこには書いた本人ですら気がついていない気づきがあるのかもしれない。
だからこそ、書いてみないとわからない。
文章を書く瞬間は、孤独――
だからこそ、それは書いた文章からしかわからない。
そんなふうに考えると、その瞬間があらわれた文章という産物は、奇跡的な産物のような気がしてしまいます。
そんなわけで、この瞬間に、見えない孤独に、読み手の想像力を巡らせられるような、そんな考察や読書感想文をまた書いてみたいなぁと思うようになりました。
ということで、今日はもっと書きたくなりそうな気持ちをおさえて、これくらいにして(笑)、「今日一日を最高の一日に」