見出し画像

本気で推し活に挑めない理由

フォローしているみくまゆたんさんが「本気で推し活に挑めない理由」という記事を書いていた。

「好きになりすぎて、自分が壊れるのが怖い」

そう書いてあった。



私も、推し活というものがあまり(というか全然)できない。しかし、みくまゆたんさんの推し活に挑めない理由は、私と正反対だと思った。

自分は、いわゆる「ハマる」という状態になることがほとんどない。

小中学校の時は、本を全然読まなかった。マンガもちょっとしか読まなくて、通しで読むことはほとんどなかった。ゲームもやってたけど、アクションゲームは全然極められないし、RPGも全クリする前に飽きてしまうことが多かった。ファッションは無頓着。音楽も嫌いじゃないけど、これというものにハマることもない。食べるのは好きだけど、好き嫌いもこだわりもない。
本は最近は多少読むようになったけど、絶対これを読まなきゃって感じのものもない。途中で飽きて割とすぐ次の本を読んでしまう(いま読みかけの本はたぶん20冊くらいある)。

そういうわけで、何かにハマるとか、推しを見つけてそれに心酔するということがない。

というかできない。


たとえばあるアイドルの曲を聴く。わぁ、曲いい。ヴィジュアル好きかも。

そうすると推しの人は、他の曲を聴いたり、グッズを集めたり、ライブを追いかけたりするんじゃないかと思う。しかし、そういうことをしようという気持ちには不思議とあまりならない。

たぶん、ここで一回立ち止まって考えてしまうのだと思う。

「なんでこの曲をいいと思ったんだろう」
曲調?テンポ?歌声?あるいは、歌詞?
「見た目はどういうところがいいと思ったんだろう?」
目鼻立ち?髪型?そういうのとは違う愛嬌みたいなものとか?あるいは声?もしかして色味とか?衣装の問題?なんとも言えない魅力が醸し出されているとしたらそれはどういうところからなんだろう?

さらに、たちが悪いことには、もっともっと、派生してさらに考えてしまう。
この曲がいいと思った理由。たとえば、自分は昔、別のアーティストのこういう曲を聴いた。その時は3月なのに雪が降っている珍しい日だった。雪の上に足跡を残しながら遊んだ。そのときは友達待っていたのになかなか来なかった。その時に使っていたMDプレーヤーから流れてきた曲に似ている。
それに対して、この曲。なんとなくその時の雰囲気とやっぱり似ている。季節外れの雪が降っているイメージ。思い出される20数年前の寒かった3月。でも、それに対するアイドルの甲高い歌声。めちゃくちゃギャップがある。全然違うじゃん。それって、めちゃくちゃ面白くない?
そしたら、このビジュアルってどうなの?目鼻立ち。あ!そうだ、目元があの時、自分を待たせていた友達にそっくりだ。
なんか驚くべき意外なところで、つながった昔の記憶。でも、歌声だけが全っ然違うギャップ。そっか、だから、ここだけが、ずれてて面白かったのか。きれいなジェンガだと思っていたのに、最初から1ピース抜けている感じ。あ~曲とビジュアルで立体的になって、つながっているのに、真ん中のジェンガだけが抜けていたのか。あ~それが面白いって感じたのか……etc……

#なんのはなしですか

自分の場合、もう、こういうことを考えだしたら止まらない(ほぼ意味がわからないと思いますが)。

もう、次の曲を聴こうとか、ライブ見に行こうとか、グッズ買おうとかは正直どっちでも良くなってしまう。

そういうわけで、おそらく楽しむ前に解釈とか分析みたいなものを初めてしまうのではないかと思います。

ちなみに、先日、感想文を書いた「推し、燃ゆ」。

実は、推しの解釈に命を懸けた主人公の話でした。主人公のブログの考察がすさまじい。推しに対する考察。たとえば、ライブで予想と違う行動をする彼。そうすると、その予想外の行動をどう解釈するか。考察して、またブログにまとめる。その解釈は強固になる。その情報量と分析がものすごい。
解釈して、考察して、新しい情報が加わって、さらに解釈に変更を加えてより強固になっていくのは確かに楽しい。
ただ自分の場合は、そこまで大量の情報を収集するほどの熱意はないというところが違う。


もっとも、こう言えるような気がしてしまう。

それは、推しそのものを愛でているのではなく、解釈を楽しんでいるのではないか?
解釈が楽しめるのであれば、推しは別に違う対象でもいいのではないか?

それって作品そのものを楽しんでいるの?本当に?

不意にそんな疑問が出てきてしまった。


みくまゆたんさんの悩みは、推しに対する純粋な愛、それが傾きすぎてバランスが崩れることを恐れている。だから、理性で理想的な状態にコントロールしようとしている。それは、すごく健全な対策だと思う。対象に対して純粋に素直に受け取る感受性があるから。

自分の場合、それと比較するのはあまりにもおこがましいけど、自分の感受性もそこそこに、なぜそう思ったかの解釈や分析に入ってしまう。そして、その解釈自体を楽しみだしてしまう。これは屈折した感受性……?


昨日、応募させていただいたモノカキングダム2024。
この企画は、投稿者がほかの作品の審査も行うというのが特徴です。
120点近くの作品……
週末から一つ一つ作品を拝見して、本当に面白いと思って一つ一つ読み始めました。

一読して生じる感情。たくさんの文章に、心揺り動かされる、でも、そのあとすぐに解釈や分析がしたくなってしまう。なんで自分はこんな気持ちになったのか、ここにこういう一文が入っているからでは?こことここが繋がっているからでは?え~なんでここでこんなことが書けるんだ?この締めに持っていく流れ、ここにこの言葉が書いてあって、あえてここでこう書いたから、だから際立ったのか!逆にこのことをここで書きたくなりそうなのに書いてない。あえて書いてないの?すごっ。え、実はこの言葉ってもしかしてこういう意味なの?すごっ。ここで伏線回収?どうやって、こう書こうという発想に至ったのかな。そしたら、これ書いているときってどんな状況だったんだろう。コーヒー飲んでるのかな。タバコ吸ってるのかな。酒飲んでるのかな。隣で子供が話しかけているのかな。夜中にこっそり書いているのかな……

あれっ……?

もしかして、自分って全然文章そのものを素直に読むことができていない……?

週末は、大量の「こえ」をテーマにした投稿文章を読みながら、ふと、そんなふうに思ってしまったことがありました。

自分には素直な感受性がないのでは……?


それで、ちょっと落ち込んだりしましたが……


……でも、それ(解釈)自体がすごく楽しいんですよね。それを少しコメントで書かせていただいていて、今回割と初コメをした方もたくさんいらっしゃるのですが、皆さんのリアクションが本当にお優しい。コメントしてみてよかった。ありがとうございます。

ある意味自分の場合は、誰か特定の人を推すという発想にはなりにくい気がしていて、その文章が出来上がっていくまでの解釈を一つ一つ楽しんでしまっています(おかげで時間がかかってしまいますが)。

結局、素直な感受性という意味でいえば、まったくと言っていいほどないのですが……まあ、もはやそういうやつが一人くらいいてもええでしょう(笑)

そんなわけで、残り半分くらい(まだけっこうある…)。楽しみながら読み進めていこうと思います。参加者の方、なるべく気をつけていますが、もし変なコメントが来てもご容赦ください🙇‍♂️


というわけで、ちょっと落ち込みそうでしたが、週の始まり月曜日。気を取り直して「今日一日を最高に一日に」





いいなと思ったら応援しよう!