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「読めば分かるは当たり前?――読解力の認知心理学」(犬塚美輪著、ちくまプリマ―新書)を考察する
読むことは、自分が実際に経験できることを超えて、自分の枠を広げ、乗り越えていくことです。ですから、自分は読むのが苦手だ、と読むことから離れてしまわないでほしい、読むことのつまずきをうまく超えて、自分の枠をどんどん広げていってほしいと思います。
なまじわかっているほうがむずかしい
なまじわかっていることの方が難しいことってありますよね。
例えば、「教育」。
「教育」って何が難しいかっていうと、「基本全員が通ってきた道だから」ではないかと思うのです。
先生も研究者も親も大人たちもみんなが「教育評論家」になれてしまう。
各々がそれぞれの考えている枠組みのなかで、持論を展開してしまいがち。そうするとカオスです(笑)
そうすると、「そもそも何が分かっていて、何が分かっていないかを見失ってしまう」、あるいは、「そもそもそういうレベルの共通認識すら取れないかもしれない」ということになりがちなのではないかと思うのです。
逆に、めちゃくちゃ難しい数式を見たとします。最初からさっぱりわかりません(笑)。
すいません、ウソつきました。高校レベルの数式でもたぶんわかりません(笑)。
これってもはや、シロウトは、立入りようがないんですよね。
ガチな人たち、猛者な人たちだけが集まる。そうすると彼らの中では、「何が分かっていて、何が分かっていないか」はカオスにはならない。
こういう超専門家ゾーンの難しさは上記の難しさとは全く意味合いが違うと思うのです。
読解の難しさはどこにあるのか
そのうえで、今回は「読解力」がテーマです。
これはどうでしょうか?
私は、「読解」の難しさは、前者のほうにあると思います。
この本は、日本語ベースの話です。
日本で義務教育を受けた人であれば、とりあえず日本語だったら、まあ読めるじゃないですか。
日本語が読める人は全員が「日本語の読解評論家」になる可能性を秘めているわけです。
でも、どうでしょう?日本語を話す人は全員「現代文」が得意ですか?
そんなことないですよね(笑)
「現代文」って難しい……安定して点数取れる気がしない……そもそも……現代文のテストの点数が取れたとしても、「読解力」があるって言えるのかイマイチわからない……
この超専門家ゾーンと全く違う、なまじわかっているはずなのにわからないような気がする難しさ。ここに丁寧にメスを入れていったのが本書ではないかと思うのです。
そして、後半は、ある種の無限の可能性を感じました(笑)その辺も最後のほうで触れられたらなと思います。
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ちなみに、この本については、ふじむらたいきさんのとんでもない書評を見つけてしまいました。
熱量、分析量、知識量いずれもとんでもないと思いました。是非読んでみてください。
まずは、イメージするとありがたみが分かる気がする
本書は、分かるようで分からないような「読解」の世界に、メスを入れていきます。
本書のスタンスの特長は、そのメスが「認知心理学」であることです。
これは、あれです。まずは、イメージしてみるといいと思います。
本を読む私。つまり、読書する私。
書いてある文字をおっていく。
みなさんは、本を読んでいるとき何を考えていますか?集中して没頭してよんでいますか?
読めない漢字があったら、意味の分からない言葉があったら、そのまま読み飛ばしますか?読み飛ばすなんてできないと、いちいち立ち止まりますか?
立ち止まって一回考えてみますか?映像をイメージしますか?情景をイメージしますか?図示した表をイメージしますか?今日の夜食べるご飯のことをイメージしますか?
とりあえず一気に最後まで読むことを目的にしますか?感情移入して読みますか?一歩引いて冷静に読みますか?むしろ書いていないことに想像力を膨らませますか?そもそもあんまり読む気がないのに読んでしまいましたか?
自分の場合、めちゃくちゃいろいろなことを考えて読んでしまっていることが多いです。
たぶんですが、読書をする際には、あらゆる心理的要因が働きます。そして、文章が私にいろいろな心理的効果を働かせる、これによって、私はどんなふうに認知し、影響を受け、頭の中で処理するのか、これを心理的なアプローチで「読解した」とは何なのかを分析している、そんな感じかなと思います。
そして、傾向と対策。
その分析をしたうえで、こうやったら「読解」ができるようになるんじゃないかなという提案があります。これはありがてぇ。このへんの詳細は、本書を読んでみてください。
ちなみに、余談かもしれませんが、これって、文章を書く人にとっても、耳より情報なのではないかと思います。
つまり、読む人の心理に注目するわけですよ。そうすると読み手がどんなふうに読んでいるかを書き手は逆に知ることができる。完全把握ができないとしても、ヒントは知りうる。
これを知っていれば、読み手がここでどう思うか?どう読解するか?をイメージすることができるようになるかもしれません。
ただ、悪用は厳禁ですね。
3つの読解
さて、本書の基本構造に触れておきしょう。
本書は、「読解とは何か」を3つに整理します。
「表象構築の読解」
「心を動かす読解」
「批判的読解」
の3つです。
まず、「表象構築の読解」ができないと「心を動かす読解」や「批判的読解」には進めないと整理しています。
まずは、クサイハナに進化しないとラフレシアやキレイハナには進化できないみたいな感じです。
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「まだ、読解できていない」=ナゾノクサ
「表象構築の読解」 = クサイハナ
「心を動かす読解」 = キレイハナ
「批判的読解」 = ラフレシア
個人的には、批判的読解のほうが「ラフレシア」って感じですね。毒属性だった気がしますし。
すいません、ポケモンあんまり詳しくないのに脱線が過ぎました……
「表象構築の読解」は、再現率の世界
さて、まずは、ナゾノクサからクサイハナに進化する必要があります。
それが、「表象構築の読解」です。
「表象構築」っていうのが、なんかもうあれですよね(笑)哲学的というか……
「表象構築」とは、「世界を再現すること」とあります。
つまり、文章に書かれている内容の世界を正確にイメージして再現できているか、というのが「表象構築の読解」で問われているのではないかと思います。
ここで面白いのが、「表象構築」って文字情報だけでやってるわけじゃない、ってところでした。「ワーキングメモリー」や「スキーマ」なんて言葉が出てきます。
書いてあるものだけがすべてじゃないんですよ。
つまり、書いていないものも関係している。あるいは、読んでいる人のバックグラウンドも関係している。その辺も含めて、「表象構築の読解」って構築されていくわけです。
「書いてあるものだけがすべてじゃない」ってすごくないですか?
例えば、ある2000字の文章を読むとしても、実際には2000字の文字情報以上の世界が存在するということです。これってすごい可能性を感じませんか?
しかし、だからこそ「表象構築の読解」って完璧に仕上げるのも難しい気がします。書き手が2000字の文字情報とそこから描こうとした世界と読み手が2000字の文字情報をそこから読み取ろうとした世界が一致していることが必要なわけです。
この精度が高ければ高いほど、現代文のテストでは点が取れるでしょう(笑)
そして、何より読み手は気持ちが良くなってさらに進化ができるわけです。
そう、キレイハナやラフレシアに……
最終進化したからこそ、その先へ①「心を動かす読解」(キレイハナ)
さて、その先があります。
まずは、「心を動かす読解」(キレイハナ)です。
「心を動かす読解」は、「表象構築の読解」で出来上がった世界の中に入り込んで、「移入」や「同一化」をしていると言えます。
中に入り込んでいるというのがポイントですかね。没入している。
小説とか物語をイメージしているのではないかと思います。
実は私、小説を読むのが割と苦手でして、この「没入」というのが少し苦手かもしれません。
ただですね、この部分を読んでいて思ったのが、たぶん、私は「説明的文章でも、移入して読むのが割と好きなんじゃないか」という気がしています。
それが、「考察」です。
「考察」って「批判的読解」とはまたちょっと違うんじゃないかと思うのです。基本的に、読んだ対象を肯定するのが「考察」ではないかと思っています。
しかし、何をしているかっていうと、この部分を書いた人がどういう感情で書いていたのかを想像するのが面白かったりします。
説明的な文章であっても、その文章を書いている姿、一生懸命にタイピングしている姿を想像して考察すると、説明的文章であっても「移入」できるような気がします。
最終進化したからこそ、その先へ②「批判的読解」(ラフレシア)
もう一つが、「批判的読解」です。
これは、「心を動かす読解」とは真逆の境地と言えます。
「批判的読解」は、「表象構築の読解」で出来上がった世界の外側から俯瞰して、「メタ認知」をします。
「心を動かす読解」は、正確にイメージした世界の内側に入っていき、「批判的読解」は、世界の外側から俯瞰する。鮮やかな対置です。
この「批判的読解」は、フェイクニュースや誤情報に騙されないために大事な読解とあります。
これを意識するのは、説明的文章のことが多いのではないかと思います。つまり、その文章の内容は本当に正しいのかと……
ただですね、この部分を読んでいて思ったのが、たぶん、私は「説明的文章じゃなくても、メタ認知して読むのが割と好きなんじゃないか」ということです。
つまり、小説とかエッセイでもある種の「メタ認知」ってありうる。
それが「考察」です(ん?)
小説とかの「考察」って「移入」とはまたちょっと違った「メタ認知」を含む気がするのです。
例えば、読んだ「小説」の登場人物の一人に感情移入をするのではなく、何故感情移入したくなってしまうのか、そのメカニズムのようなものを分析したくなる。そのためには、小説で作り上げられた世界の外側に出て分析することが必要です。
何をしているかっていうと、小説の世界の中に入っている自分を、世界の外から眺めて楽しむという側面が「考察」にはあるのではないかということです。
だからこそ、小説などの物語文章であっても「メタ認知」ができるような気がします。
「心を動かす読解」と「批判的読解」の共通点
というわけで、「考察」という最近勝手にlionが使い始めているキーワードに無理やり引きずり込みながら、この文章のまとめに入っていきたいと思います。
ここまで読んで、感想を書いてきて思ったことは、「考察」には「心を動かす読解」と「批判的読解」のいずれも含まれうるが、ある共通の性質があることに気がついたということです。
それは、「今まで自分が気がついていなかったことに気づく」という側面です。
よく「読んで気づきが得られました」ということがありますが、それはこの類の話なんではないかと思います。
そして、このことを本書は、あるキーワードで上手に紐づけているのではないかと思います。
それが、「枠」です。
「心を動かす読解」について
「移入」や「同一化」は出来上がった世界の中に自分自身を立たせ、内側からその世界を体験することだと言えます。物語を通して、違う立場から現実世界や現実世界の異なる他者の視点をシミュレーションすることで、読み手の「枠を広げる」ことが可能になるのです。
「批判的読解」について
誤情報を信じてしまって修正できないという現象には、もともとの知識や信念のようなあらかじめ自分が持っている枠が影響しています。人はなかなかこの枠を乗り越えて情報を見ることができません。自分の力だけでこの枠を超えていくのは難しいことですが、この章で述べてきたような誤情報を受け入れることやその訂正についての知識を、皆さんが誤情報に向き合う際のメタ認知的知識として活用してほしいと思います。
いずれにも「枠」ということばが使われています。
自分の枠の外を認識したとき、我々は「気づき」を得るのではないかと思うのです。
それを求めてあれこれ考えてみるのが「考察」だとしたら、「考察」の醍醐味は、自分の枠の外側を見に行くことなのかもしれません。
そんなわけで、今回も新たな気づきを、いろんな面で「枠」の外側に出ていくことを求めてみながら、「今日一日を最高の一日に」
※今度この本について、15日21:00~スペースで読書会をやるみたいなので、参加してみようと思います~
犬塚美輪『読めば分かるは当たり前?』の読書会を開催します。
— ヨシュア (@f12qp) February 8, 2025
🗓 日時:2/15(土)
📍 場所:スペース
🎤 スピーカー条件:6割読了
主催:@hamamatsuOD
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