見出し画像

菅原道真公が愛した「梅の花」と そのご生涯

寒さが厳しい日々が続くなか、日差しはだんだんとあたたかく柔らかくなっていることを感じます😊
季節が確実に巡っていることを実感いたしますね…🌸

2月は「梅」をテーマに、寒さに震えながらも春を待つ「梅花」特別御朱印、そして飛梅伝説から想起した「飛梅」特別御朱印を授与しております…🌺

飛梅の伝承にもある通り、当社の御配神であり「天神さま」と親しまれる道真公は、子供のころから梅をこよなく愛し、自宅でも梅花を愛でておりました。

その邸宅は古くは天神御所紅・白梅殿とも呼ばれていたと伝えられています。
今日は梅と道真公についてのお話です♪


◆道真公と梅

当社の御配神であり「天神さま」と親しまれる菅原道真公は、学者としては勿論、漢詩や和歌で多くの名歌を残され、書では「三聖」と称されるなど、類まれなる才能の持ち主でした。

「東風吹かば~」の歌を代表に、梅をこよなく愛されたとの伝承が数多くある道真公。

そういった逸話から、全国の道真公を祀る神社の御神紋は「梅の花」、境内にも梅が植えられているお社も多くあります。


◆梅と詩歌

そんな道真公ですが、5歳の幼少の時には既にこんな歌を詠んでいます。

大人の女性がさす紅が梅の花の色みたい と子供らしく素直に詠んだ歌ですね。
幼少期の道真公の可愛らしさに、得も言われぬ“エモさ”さえ感じます…💛

ここから年を重ねられ、11歳になると「月夜に梅花を見る」という風景ソムリエのような漢詩を詠まれます。

5歳の素直な和歌もかわいらしかったですが、そこからの進化がすごい…! 学問の神と称される道真公の、幼少期からの恐るべき才能を感じますね👻


◆「天神さま」道真公の波乱万丈なご生涯

成人後は学者の家系ながら異例の出世を遂げ、右大臣にまで取り立てられる道真公ですが、その才能や地位からくる周囲からの強烈な妬みや嫉妬に悩まされ続けたご生涯でもありました。

とうとう延喜元年(901年)、道真公は無実の濡れ衣を着せられ、遠い九州・大宰府の地に極めて配流に近い左遷になってしまいます。その時に詠まれた歌が、前述の「東風吹かば~」でした。

配流の前は右大臣であった道真公、大宰府では衣食もままならぬ厳しい生活を強いられながらも、皇室のご安泰と国家の平安、またご自身の潔白を只菅に天にお祈りされたという記録が残されています。


◆道真公、最期の漢詩

そして左遷から2年の月日が経った延喜3(903)年の正月に、道真公は大宰府に降った春の雪の情景に、こんな漢詩を詠みました。

城に盈(み)ち郭(くるわ)に溢るるは 幾ばくの梅花か
なほ、これ風光早歳の華なり
雁(かり)の足に黏(ねやか)り将(い)ては、帛(きぬ)を繋(か)けたるかと疑う
烏の頭に點(さ)し著(つ)きては、家に帰らんことをおもふ

『謫居春雪(たっきょのしゅんせつ)』 <菅家後集 五一四>

 【訳】
大宰府の内にも外にも溢れる春の雪に光りが当たって、どれほどの白梅が咲き誇ったのかと見誤るほどだ
やはりこの光景は、年のはじめに風に揺られて咲く美しい花である
雁の足にねばりついている白い雪を見ると、都へ戻れる手紙ではないかと疑い
烏の頭に白い雪がつくのを見ると、私も家に帰れるかと思うのだ

 こちらは春の雪を梅の花と見立てて吉兆を寿ぎ、中国の故事に重ねて自らの帰郷を願った、ご逝去のひと月前に詠まれた歌で、道真公が残した最期の歌となりました。

最後まで都へ戻りたいという強い想いを持ちながらも、浄明正直の変わらぬ信念と、敬神の祈りをつらぬいた道真公。そして延喜3年2月25日、道真公はその清らかなご生涯を閉じられました。

溢れる才能ゆえに悲劇の道を歩んだ道真公でしたが、卓越したその才能と、ご生涯を通じて誠を尽くされた清らかな生き方は、1100年以上経った現代まで多くの人々の琴線に触れています。

没後は朝廷でも道真公の無実が証明され、天満大自在天神てんまだいじざいてんじんという神様の御位を贈られて、現在においても「学問の神様」「至誠の神様」と広く信仰を集めております。

菅原道真公をお祀りする神社は、全国に1万2千社あるといわれています。各社様々な縁起がありますが、それぞれの神社でその信仰やエピソード、御遺跡に触れることができるはず。

梅の御神紋が目印の「天神さま」(〇〇天神や〇〇天満宮)に御参詣の際は、ぜひ細部まで着目してみてください。

どうぞ、神社にお参りの際は、五感をふるわせてお参りをいただきつつ、少し立ち止まって、そういった「繋がり」を探してみてはいかがでしょうか♪


いいなと思ったら応援しよう!