雪夜に伸びる父の影【エッセイ】
こんばんは。
ご無沙汰しております、小野木のあです。
ステキブンゲイで自由律俳句コラムを始めてからというもの、noteへの投稿が滞っておりました。
迫りくる文フリ東京や最近の活動?内容など書くべきことは山ほどあるように思われますが、
今日はどうしても書きたいことがあります。
はじめに言っておきます。
私は今、酔っぱらっています。
飲んでいるのはウォッカの水割りinポッカレモン。
急にお酒が呑みたくなった時のために常備しています、ウォッカを。
何で割ってもいけるのでおすすめです、ウォッカ。みんな常備しよ。
話が逸れた。
今日は、私にとって二十代最後の夜です。
書き始めた現在が23時を回っているので、投稿する頃には日付が変わっているかもしれません。
前置き1
ここ数年、誕生日が近づくと心が落ち着かなくなります。
年をとる、ということに不安を感じるのです。
東京で一人暮らしをしていて、仕事はハード、友人はほぼいない、もちろん恋人もいない、結婚の予定は生涯無し。
自分で選んだことなので迷いはありませんが、将来については非常に不安です。それとこれとは別。
普段は割と平気なのですが、誕生日付近になると急激に不安が押し寄せてきます。
この症状は数年前から続いているのですが、二十代が終わるとなれば不安の大きさも格別です。
孤独死ルートが鮮明に想像される未来予想図を、なんとか断ち切りたい。
そのようなわけで、思考のコントロールと現実逃避を兼ねてエッセイを書くことにしました。
つまり自己満吐き出し記事です。よろしくどうぞ。
前置き2
突然テンションが変わると思うので一応ご説明を。
私がnoteを始めたのは、幼少期の記憶を記録しておきたい、という強い思いがあったからです。
最初に書いた「ペットボトルロケット」が、その最たる例です。
「イタチ」「空を見つけた日」もそうです。
その他にも色々なエピソードがあるのですが、中でも一番他人に話しにくいことを、今日は書こうと思います。
父のことです。
父と妹と私のこと、つまりは家族の話と言って良いと思います。
家族以外にこの出来事を話したことは一度もありません。
父とも、このエピソードについて話をしたことはありません。
妹には、話したことがあります。
この頃のこと覚えてる? と聞いたら、妹は爆笑しながら「覚えてない」と言いました。
彼女が覚えていないことが、私にとっての救いです。
長々と前置きをしたのは、今から書くことは私にとってお酒の力を借りないと書けないような内容だからです。
読んでくださる皆様にとっては大したことない、拍子抜けするようなことかもしれません。
しかし私には、この時の父の言動は今でも理解不能で、恥ずべき事、常識から逸脱していることだと思えます。
というわけで、やっと本題です。
雪夜に伸びる父の影
あれはいつのことだったか。
五年間住んでいた東北の豪雪地帯の町で、弟が生まれる前で、妹が保育園に通うようになった頃のことなのは間違いないから、私は小学校に入ったばかりだったはずだ。
冬のある日、私が学校から帰ると家の中にはなにやら不穏な空気が漂っていた。
当時から他人の感情に敏感だった私が、プンプン怒っている母に聞かされた事情はこうだった。
妹を保育園に迎えに行った帰りに、母はスーパーに立ち寄った。
夕飯の買い出しだったのだと思う。
母に連れられてスーパーに入った妹は、お菓子売り場で駄々をこねた。妹が欲しがった商品は、六角柱の箱に入った子ども向けのアクセサリーにラムネが付属しているものだった。
現場にいたわけでもないのに、私はその商品を今でもよく覚えている。
「買わない」と言う母に、妹は泣きわめいて抗議した。「欲しい、買って」という、幼児によくある座り込みと絶叫である。
駄々をこねても買ってもらえないと判断した妹は、強硬手段に出た。
その場で商品を開封したのだ。
当然、その商品は買い取りとなった。
そして家の中には、怒り心頭の母と、結果的に商品を手に入れて悪びれていない妹(2~3歳)の二人による不穏な空気が醸成されていた。
父の帰宅後、私の恐れていた事態が起こった。
母から事情を聞いた父が、妹を叱りはじめたのだ。
以前の記事にも書いたが、父は躾に厳しい人だった。身体も声も大きく、その威圧感は半端なものではない。相手が大人でもビビる(私はその場面を何度も目撃している)。
怒っていなくても素面の時にはほとんど笑わない、寡黙で恐ろしい人だった。
子どもだった私たちにとって、怒ったときの父はまさに鬼だった。
父に叱られた妹は泣きじゃくっていた。
何度も言うが、妹は当時2歳か3歳である。
𠮟ることは必要だったのだろう。しかし、父の怒りは妹を泣かせるだけでは収まらなかった。
大泣きする妹に、父が言った。
「お前がしたことは泥棒と同じだ。この家には泥棒の子どもはいらない」
そして父は、泣いて暴れる妹を引きずって外に出た。
説教される妹の隣に座って一緒に泣いていた私も、父と妹の後を追って外に出た。
豪雪地帯の、冬の夜である。
雪の壁が出来ている道路に、しんしんと雪が降り続けていた。
泣いている妹を引きずるようにして歩く父、その後ろにやはり泣いている私、という三人が、闇の中にボウと光る雪道を歩いていく。
降り積もる雪は、周囲の音を吸収する。
奇妙な静寂の中に妹と自分の泣き声が響く。
数少ない街灯が雪に反射し、夜道は薄明るい。
相変わらず説教のような文言を並べながら先を行く父と妹の後を、必死について行く。
冷静に考えれば、私には泣く必要も、ついて行く必要もなかったのだけれど、当時の私には妹と一緒に泣き、後を追う意外の行動はとれなかった。
父が妹を捨てるかもしれないと、そのとき私は本気で思っていた。
父の歩いた道筋は、偶然なのか故意なのか、私の通学路と同じだった。
十五分ほど歩いたところで、父は驚くべき行動に出た。
泣きじゃくる妹を引きずったまま、知人の家に入って行ったのだ。
小学校の目の前にあるその家は、私が通っていた習字教室の先生のお宅であり、同じ小学校に通うお友達の家でもあった。
家族ぐるみで付き合いがあったその家に、父はずかずかと入り込んだ。
「この家の子どもになればいい」「〇〇さんなら優しいから何でも買ってもらえるぞ」
というような言葉を父の口から聞いたように記憶している。
突然の乱入者に驚いた様子の奥さん(私にとっての習字の先生)が玄関に出てきた。
妹が父の手を振りほどいて先生に駆け寄り、抱き着いて泣き叫んだ。
父は、妹に向かって怒鳴り続けていた。
私はその光景を見ながら、玄関口で立ちすくんで泣いていた。
当日の記憶はここで途切れている。
事態がどう収束したのかは覚えていないが、押し入った先の奥さん(先生)が父と妹をなだめてくださったのだろうと推察している。
この日、恐らく父は酒が入っていたのだと思う。
そうだとしても、彼の行動はとても容認できるものではない。
このエピソードは幼少期のトラウマのうちの一つなのだけれど、あまりにも非常識な行動故に書くことがためらわれた。
それでも書いたのは、黙って抱えていることに苦痛を感じるようになったからだ。
なぜ書きたいと思ったのか
これには明確な理由がある。父の人格の急変だ。
父は今年、還暦を迎えた。
定年退職間近にも関わらず単身赴任を余儀なくされ不慣れな一人暮らしを強いられた父は今夏、追い打ちのように難病の宣告を受けた。
諸々の影響により、父の性格は激変した。
いつも無口で殺気立っていて、幼い我が子に話しかけられても無視するような人だった父が、頻繁にLINEで日記文を送ってくるようになったのだ。
ハートの絵文字付きで庭のカエルの写真を送ってくる父は、私の知っている父ではない。
父の変化に、私の心はついて行けなかった。
しかし、それでいいじゃないか、と思う自分もいた。
ようやく父と会話が成立するようになったのだ。良好な家族関係を築こうと四苦八苦してきた私のこれまでの努力が成就したと思えば良い。父親と恐怖を伴わない会話ができるようになるなんて、奇跡的な進歩だ。
確かにそう思った。
私は元来争いごとが苦手な性格で、怒っている人は心底苦手だ。
以前の父のような常に不機嫌な人に関しては、生理的に無理と言ってもいい。
そのストレスが解消されたのだから、素直に喜べば良いのだ。
それでもやっぱり、モヤモヤする。
急に仲良し親子みたいなLINEされても、
え、それ本気? むしろ怖いんだけど。てか調子よすぎない?
と、反射で思ってしまう。
前述した妹の事件の他にも、たくさんたくさん、積もり積もった父による恐怖体験が思い起こされて、頭の中で
「あの頃のお前のありえない行動、忘れてないからな」
という声がする。
そして、私の中の小さい私は、まだ泣き止んでいない。
根に持つタイプなんです、私。
だから、どうしてもモヤモヤが消えない。でも、もういい加減水に流して、笑い話にしてしまいたい。
そのために、できればアウトプットしたい。
以上の葛藤の末、お酒の力を借りて、本記事の作成にいたりました。
これ、どうなんでしょう。
私としてはドン引きエピソードで、当時の父のことが気持ち悪くて不気味なんですが。
読んでくださった方、不快な気持ちにさせてしまっていたらごめんなさい。
でも書ききったおかげで、私は安眠できそうです。
おわりに
結局もう2時。
そろそろ寝ます。
気力が持たないので後日にしますが、今月の文フリ東京や、その他活動について改めて記事を作成したいと思います。
また近々お会いしましょう。
最後までお読みいただき、心から感謝いたします。
ありがとうございました。