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第五の権力

第五の権力という言葉を知っているだろうか。
有名な三権分立。司法、立法、行政。
権力を三つ巴にすることで正常な運営が出来るという考え方。
それがある時期から第四の権力と呼ばれる存在が生まれてきた。
それがメディア。マス・コミニケーション。
報道することが一つの権力になったと言われている。
倫理委員会などはあるものの、こちらの権力については正常に運営できるのか、良識に任せるなんていうのは難しいだろうし、報道の自由という憲法の存在に守られている分、とても厄介になっている。
実際、現代の戦争は情報戦から始まるわけで、報道が武器になりつつある。

さて、そこに第五の権力という存在が生まれつつある。
それが個人個人が繋がったネットワークそのものだ。
SNSやインターネットで繋がった集合体は一つの権力となるという考え方。
恐らくは今はまだ過渡期で、誹謗中傷罵詈雑言デマにフェイクになんでもござれなわけだけれど、人間の本質が悪意なのか善意なのかという部分に触れる可能性がある巨大な何かが生まれようとしている。
人は時に集団ヒステリーのような状況を生み出すからそれも危険だよなと思いつつも、もうそれは止めることのできない流れの中にあるのだと思う。
なんというか「良識」のようなものが生まれるのだろうか。
少し恐ろしくもある。
とは言えその権力はすでに企業体への集団クレームなどの動きを見せている。実際に社会が動くようなことはすでに何度も起きている。

有志のハッカー集団が抗議のために武器を運ぶ電車を止めてしまったり、有志の衛星画像分析チームが実際にSNS上でウクライナで起きていることを丸裸にしている。
プロパガンダで国家が流したフェイクニュースも簡単に見破っていく。
誰か一人の優れたエンジニアがいるわけではなく、世界中の普通の人々がそれぞれ協力し合いながら真実を明らかにしていく。
そういうことが実際に起きていることを目にして、それが実はものすごい変革のひとつなのだよなぁと考えると身震いする。

芸能という世界の中で権力を持った人の横暴をあきらかにしようとしたメディアが、逆に報道という名の権力を持っていることへの自覚を問われているかのように、SNSという巨大な集団意識から非難されていた。
何が正しいのかはともかくとして、権力に自覚なき状況というのは今は通用しなくなってきているのだと感じる。
政治家もかつては強力な票田さえあればマスコミなんて恐くないような人がいたけれど、今は時代の雰囲気とか空気感を恐れ始めている。
あのふてぶてしい権力の塊みたいなじいさんが、やけっぱちで謝罪するわけだよ。

でもそれは同時に問われているということだ。
人間の本質が善意である。良識である。そうありたい。
そこを問われている。
それも偏った民族意識だとか宗教観を越えていなくてはいけない。
どうしょうもなくダメなものも許容できるような深さのある良識。
非常に哲学的な、今までにないものだ。
いや、あったのかもしれない。かつてそれは芸術と呼ばれたのかもしれない。
そんなことないか。
芸術家って世捨て人なんて呼ばれたりもしたのだから。

ってことは愛か?愛なのか?

世界はいつの間に変わったのだろう。
確実に変わっているんだと、ここのところ感じ続けている。

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小野寺隆一
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