「わがまま」についての一考察

 最近読んだTwitterの投稿で、子どもの意見を聞いたら子どもが「わがまま」になってしまうので、子どもの権利条約第12条「意見表明権」に最後まで反対している人がいたと書いていました。投稿した方は批准して30年経っても現状は変わっていないと嘆いていました(日本は1994年にこの条約に批准しています)。
 本当にそう思います。私は投稿した方に利用者と支援員でも同様の事態があるとリプを送りました。私はASD当事者の1人(障害者)であり、福祉事業所A型の利用者でもあります。子どもと利用者(障害者)というのは違いはあれど、「力ない立場」という点では共通しています。では、その逆の「力ある立場」とは誰でしょうか。もちろん、子どもならば大人であり、利用者(障害者)で言えば支援員(健常者)です。今回は「わがまま」という言葉をこの力関係から読み解いていきます。
 いきなりですが、「わがまま」とは何でしょうか。私には分かりません。こう書くと「あなたは本当に社会人か⁈」と言われそうです。ただ、子どもの権利条約第12条「意見表明権」と障害者権利条約第21条「表現及び意見の自由並びに情報の利用の機会」(障害者権利条約パンフレット P24 外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/)により、子どもと利用者(障害者)は意見を自由に表明していいはずです。それが「わがまま」と混同されたりするのはどうにも解せません。
 とすると、この「わがまま」という言葉は誰が言う権限があるのでしょうか。それは「力ある立場」です。要するに、ここでは大人や支援員(健常者)です。この方々が子どもや利用者(障害者)等のような「力ない立場」を判断する際に使う言葉であると言えます。と言うことは、「わがまま」という言葉は優れて社会的であるとも捉えられます。要するに、「力ある立場」が優先されることで社会が形成されているということです。
 「力ある立場」と「力ない立場」の人は「同じ人間」ではなく、「違う人間」です。この両者の関係性は非対称的(対等ではない)です。なので、「力ある立場」が「力ない立場」に対等性を確保する義務や責任があります。そのために「力ある立場」には権限とその分の責任があります。ここには「力ある立場」は既に権利を持っているという前提があります。一方、「力ない立場」には権限はありませんので、責任もありません。だからこそ、権利が発生し意見を表明できると言えます。
 繰り返しますが「わがまま」という言葉は「力ある立場」が使います。社会の中で一定の力を持ち、社会的な常識や価値観等を決める権限がある人たちです。「わがまま」とはそれを基準として「力ある立場」が様々な形で決めるものと言えます。ですから、この「わがまま」という言葉は本来、「力ある立場」が責任を取らなければなりません。ではどうしたらいいのでしょうか。
 まず、「力ある立場」が自分たちが優位であることを自覚する必要があります。要するに、「力ある立場」が優勢である社会構造に目を向ける必要があるということです。その上で、「力ない立場」の言い分を聴いて本当に「わがまま」なのかを考えてみることです。その際に最も重要なことは言い分を聴いてみて「力ない立場」との対等性が確保できるかということです。そう考えていくと、「力ある立場」がどれだけ「わがまま」という言葉を深めることができるかに掛かってくると言えます。要するに、「力ある立場」が「力ない立場」に対してそう思うようになったら「要注意」のサインと考えてほしいのです。
 私も現時点では利用者(障害者)の立場ですが、保育士として支援する立場になると「力ある立場」に変わります。なので、今回の文章は自身への自戒の念を込めて書き進めました。
 ここまで読んでくださった方に心から感謝申し上げます。

 参考文献:障害者権利条約パンフレット 外務省 
      http://www.mofa.go.jp/mofaj/
 
 

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