哲学対話に「答え」はあるのか?

これまでの哲学対話を思い返してみると、
時間内に「答え」が出たことがない。

ここでいう「答え」とは、
参加者全員が「間違いない」と断定できる納得できる、問いに対する正解のことである。

例えば、「江戸幕府は誰が開いたのか?」という問いに対して、
「徳川家康」という答えが満場一致で揃うだろう。
哲学対話では、このように答えが満場一致で揃うことはない。

例えば、「では、なぜ誰が開いたのかが気になるの?」と聞いてみる。
すると、「今の日本の政治のトップは男性だが、江戸幕府という長く続いた政権も当時から男性がトップだったのかと気になって・・・」となれば、ジェンダー論に発展するかもしれないし、
「あんなに長く続いた政権の土台作りは、大変だったのかなと思って…」だとしたら、
「物事を成し遂げるときに必要な心得って何だろう?」と広がるかもしれない。

知識を問う問いだとしても、
問いがうまれた根っこに遡れば、もしかしたら違う角度で話し合いが展開していくかもしれない。

このように哲学対話の場面では、問いは問いを生み、また問いは問いを生んでいく。
こうして問いの連鎖が続く中で、疑問がわく。
果たして「哲学対話は答えにたどりつける対話なのだろうか?」ということだ。

対話は、自己内対話をのぞくと、他者がいて初めて対話が成り立つ。
わざわざ他者と対話をして一緒に探究するのだから、「答え」も他者と一緒に見つけるのが筋だろう。
同じ問いを共有して、一緒に考えヒントを出し合っているのだから、
答えを他者と分かち合いたいし、他者も納得してこそ「答え」と言えるのではないか?

そう思うと、時間内に哲学対話で「答え」が出たことがないことは不思議である。
毎回「答えに関しては、まだもやもやしていますねー」と答えが出ていない雰囲気で解散になる。

問いを立てておいて、答えが出ないだと?
他者と一緒に答えを求めて探究しておいて、答えも出ずに終わるだと?
対話の目的は、答えを出すことじゃないのか?

こんなクレームに近いような疑問がわく。

モヤモヤを解消してくれたのは、こちらの論文だ。

GendaiSeimeiTetsugakuKenkyu_11_04.pdf
岩内章太郎 小川泰治「哲学対話に「答え」はないのか 子どもの哲学と現象学的哲学対話の観点から」『現代生命哲学研究』第11号 (2022 年 3 月):57-81

ここでは、「本質観取」と「子どもの哲学」を比較しながら、哲学対話の「答え」についてまとめている。

「子どもの哲学にとって答えとは、参加者たちがその答えを知りたいと願う知的好奇心を支えるものであり、それが探究を前進させるための根本的な動機となる」

その通りである。
「答えなんてないよね」「答えなんて人それぞれだよね」と思って始めてしまったら、
誰も対話なんてしなくなる。
自分の言いたい答えだけを言って、人の答えなんて興味も持たず、
誰も対話を通して探究などしなくなるはずである。

つまり、

「「答え」は探究において常に目指されるものとして「ある」」

のである。

「私はこれが答えだと思う」と思って場に出したときに、
対話の中で他者が「この場合は?」と投げかける。
自分から見たら「間違いなく答え」だったはずが、
別の角度から見たら「あれ?絶対とは言い切れないぞ?」とまた確かめていく。

問いを問い、別の角度から考え、それを繰り返していきながら、輪郭が見え始めたところで、時間になる。

答えが出たら、その答えを疑い、また答えが出たら、その答えに疑問を投げる。
対話を通して一緒に探究してきたそこにいる他者に、「これが答えだよね?」と決着をつけることはしない。
つまり、「答えは出されぬまま終わる」。

だけど、「答え」はたしかにそこにある。
そう思いながら、対話が終わるのだ。

例え話で考えてみる。

「星ってなんだろう?」なんて問いが場に出たとする。
よく星を眺めているから答えにたどり着けそうだ、と
前向きに問いについて考え始める。
対話が始まり、口火をきる。
親に買ってもらったかっこいい望遠鏡で星を見ていたことを思い出し、
その形や色やくぼみなどを分かった気になりながらみんなに話してみる。
すると、「え?それの色ってその顕微鏡を通して観た時だよね?図鑑にはこう描いてあるよ」と言われる。
「なに?」となりながらも、たしかに色が違う。
「大きさってどのくらいなんだろうね?」と言われる。
「大きさ?顕微鏡でのぞいた時は手のひらくらいだけど、等身大じゃないよなきっと」
なんてやり取りをしながら、最初確信していたことがだんだんとぼやけていく。
わかっていたようで、実はわかっていなかった自分に気が付く。
「火星人とか宇宙人とかって本当にいるのかな?」とか
「月のうさぎも、月に行って見たわけじゃないのになんで言い出したんだろう?」とか
星だけじゃなくその周りにもどんどん話題が広がって、最初に形や色だけにとどまっていた星の見方が増えていく。興味も広がっていく。
「なんでだろう?」「本当かな?」「そもそも?」
なんていうのを考えながら、時間になって話は終わる。
望遠鏡を使ってくっきりはっきり分かっていた
と思ったことが分からなくなり、
最後には、顕微鏡を通して眺めなくても星が近くに見えるような、そんな手ごたえが残る。
「星が近くなりましたよね」なんて誰も決めつけない。
だけど、私の中にはたしかに「星は近くなった」のだ。
「あ!そういえば数はどうなんだろう?」なんて問いは残っているけどね。

こんな例え話で、哲学対話に「答え」はあるのか?についての答えにしたい。
つまり、たった今の暫定解だけど、まだまだ気になる問いもあって明日になったら変わるかもしれないけど、
だけど、「答え」はたしかにそこにある。
それが哲学対話の「答え」だと思う。

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