姿勢が問われる日々
こんばんは、茶助です。
長い連休が終わった。
我が家、なんだかんだと家族3人でみっちり過ごしたのは息子が生まれた直後以来かもしれない。
って、終わったのはこないだの日曜日なのだが。
連休明けには体調を崩し、久しぶりの高熱でぐったりしていた。
そんな時、ある話を聞いてハッとしたことがあったので、今日はそのあたりのことを書かせていただこうと思う。
一瞬でもいいから本気出す時間に挑戦
参加中コミュニティの音声で、新田祐士さんがこんな話をされていた。
これを聞いたとき、体調不良でぐったりしていたこともあり、ずっと10点くらいの過ごし方になっていた。
聞いたのは夕方だったので、まだ挽回のチャンスはあるぞ!と意気込み、力を振り絞ってやり残していた家事を頑張った。
100点!とまではいかないなと思いつつ、この体調でできることはやった、と自分の中でオッケーを出し、この日を終えたのであった。
しかし、私にはもっとやるべきことがあったのだった・・。
向き合い方を問われる
この後もしばらくは体調がすっきりせず、休み休み過ごしていた。
やりたいこともあるし、noteに書きたいこともあるけど、それよりも寝たい、、。
そんな中、いつもやり取りをしている仲間のチャットが動いていた。
そこで話されていたのは、「やったらいいよ」と言われたことに対する姿勢についてだった。
説明すると、、
以前私の記事にも少し書かせていただいたのだが、私がお世話になっている方(佐藤想一郎さん)から般若心経を覚えるといい、ということをオススメしていただいた。
理由としてはこんな感じ。
・とにかく暗記してずっと唱えておくことでそっちに意識が集中する
・そっちに集中している間は、余計なことを考える隙がない。
この話が出て半月ほど経過した頃。
覚えるペースは人それぞれだったが、「そもそも覚えようとしている?」と物事への向き合い方についてご指摘いただいた。
この言葉は別のメンバーに向けられたものではあったが、私にもばちーーっと響いた。
最初は少しずつ覚えようと取り組んでいたのだが、、3分の1ほど覚えられたところで止まってしまったのだった。
覚えられた箇所だけでも繰り返し唱えるようにしていたら、それだけでも以前に比べるとだいぶ心が落ち着くようになったなと感じていた。
そこで、満足してしまったのだ。
そのうちに、だんだんと「早く全文覚えて唱えられるようになりたいけど、時間がないんだよな~」などと言い訳のような気持ちが出てきて、そのうち覚えられるでしょ、と手を抜くような姿勢になっていた。
想一郎さんは決して、早く覚えられる人が偉くて、できない人がだめとか、そんなことはおっしゃっていない。
できる、できないの問題ではないと。
それを聞いて、「せっかく教えていただいたことに、なんて失礼な態度で向き合っていたんだ!」と反省。
できる、できないの問題ではない、けど、本気を出して覚えきるぞ!と心に決めたのだった。
やるときはやる!
さっそくまだ覚えられていなかった続きの暗記に挑戦した。
学生時代のテスト前って、どうやって覚えてたっけ?と思い出す。
そうだ、歩きながら、単語帳や教科書をひたすら声に出して読んでいたではないか!
さっそくリビングをぐるぐる歩き回りながら暗記スタート。
さいわい、今日は夫の帰宅が遅い。
息子が寝たあとはフィーバーおひとりさまタイムだ。
何度も何度も唱えているうちに、暗記する感覚を思い出した。
あんなに遠く見えた道のりも、やってみたら意外とそう遠くなくて、同じ言葉の繰り返しに気づいたり、現代語訳とセットでイメージしながら覚えたり、、。
なんとか、最後まで覚えることができた。
いや、厳密にいうと、まだ完全な暗記ではない。
ちらちら紙(般若心経が書かれている紙)を見ながら、あー!それかーー!という感じのレベルではある。
が、今日の100点は間違いなく、この暗記タイムだったと思う。
まとめ
ちょっと久しぶりのnoteで書きたいことがごちゃっとしてしまった感がある。
まとめると、ここ数日の中の学びは
・一日の中でピークをつくること
・物事に本気で挑戦すること
である。
体調とか、天気とかで毎日ずっと100点!は難しくても、一日の中で本気タイムをつくれるように意識して過ごそうと思った。
その姿勢を、神様は見てくださっているはず。
その姿勢が、生き様として自分の空気に出るはず。
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仏教用語の理解が深まります(꜆ ˙-˙ )꜆
最後までお読みいただきありがとうございました。