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「(K)not」第十話
「孕み子がこの馬が来ると腹を蹴る」
妻が川柳を詠むが如く訴えた言葉を信じて買った単勝馬券で、氷川正一郎が山手の旧家屋を買ったのは今から30年近く前のことだ。
安易にも有馬と名付けられた長男は、図らずも強運に恵まれた。その数々の奇跡は伝説として広まり、「頼もしい御長男」「サラブレッド」などともてはやされたが、本人にその気概は微塵も無かった。やがて周囲が寄せる一切の期待とプレッシャーに全く気付くこと無く、実にマイペースな男子に成長する。行き場を失くした周囲の期待は、氷川夫妻のセンスによりこれまた安易に名付けられた弟へ推移した。彼は期待通りのエリートに成長し、いつしか有馬は「楽しい御長男」「野生の馬」と呼ばれるようになり、自由にのびのびと草をはみ現在に至る。
しかし、先にも述べたが、彼は傑出した強運の持主だった。単なる幸運と呼ぶべきかあるいは不運が彼を除けて通ると言うべきか。否そのどちらでも無く、彼に降り掛かる不運はその場の空気ごと巨鯨の如く喰らうといった印象である。むしろそれが彼の極めて強い存在感の理由であったが、その代償として若干空気を読む機能が損なわれており、彼の不運の食べこぼしによる影響を少なからず受ける者もいる。
それが弟の襟人である。
「ただいま~。なんだ随分散らかってるな。」
色とりどりの浴衣が無惨に踏み散らかされた玄関に帰還した野生の馬は、いつもの我が家とは異なる雰囲気に疑問を感じながらも、ボディバッグを放り出すなり「メシ~!」と嘶いた。
「知るかッ!」
夕飯の催促をしただけで、かつてこんなに怒鳴られることがあっただろうか。
「なんだよ生理かよ、エリコぉ〜。じゃ晴さん?メシ何?これどーしたの?」
そう言って、脱いで丸まった靴下を玄関先に置いたまま、有馬がリビングのドアに消えてしまうと、襟人は目を閉じて深く長く息を吐き、黙って浴衣を片付け始めた。
*
理紀を部屋に放り込むと「もう寝ろ。」とだけ言って正一郎は行ってしまった。あれだけ大暴れしたのに説教もされず、訳も聞かれなかった。理紀は無性に恥ずかしくなって、情けなくなって、叫びたくなって、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
母が亡くなって、どうしようもなく辛くなった時、同じように布団に顔を埋めて叫んでいたことを思い出す。
父と母の別居の理由は不仲によるものではなかった。
母は弟を実家のある名古屋で出産した。大変な難産の末、未熟児で産まれた弟は8ヶ月退院が出来ず、環境と経済状態とを鑑みて母は弟とそのまま名古屋に、父は理紀と二人で東京に長いこと離れて暮らした。母の仕事のスケジュールに合わせて、理紀と父は名古屋へ会いに出掛けた。弟が頻繁に体調を崩していたものだから、東京へはなかなか出てこられなかったのだ。
その後弟が無事に就学しても、すぐに同居とは事が運ばなかった。何故なら、その頃丁度仕事が軌道に乗り始めた母は、金銭面でも生活面でも祖母の支援を必要としていたし、祖母は溺愛する弟をどうしても手元に置きたがったからだ。また、祖父は利発な理紀に大きな期待を持っており、名古屋を訪れた際は母の兄弟たちより優遇された。父もそんな理紀を間に置くことで、義父母との関係のバランスを取っていたようだった。一方理紀は理紀で、己に緩衝材としての才能があることを自覚し、学校での成績も良く自信もあり、何の不満も無くただ生きることを楽しんでいた。
「りいちゃん、りいちゃん。」
『りき』と『にいちゃん』を合わせた自分の呼び名。病弱で人見知りな弟からの憧れの眼差しを心地良く感じ、その存在に愛情を覚えた。
そんな、兄である自分に酔っていた日々は突然終わりを告げる。
母が急逝し、父は悲しみに暮れる祖父母から半ば強引に弟を引き取った。親子三人で暮らすようになって初めて、弟が気温や湿度といった環境変化により発熱することや、投薬を欠かせない体質であること。同年代の子供たちと比べて一際未熟で繊細であることに気付かされた理紀は、そんな10歳に満たない頃から検査入院を繰り返してきた弟を、今度は自分が守ってやらなくてはいけないと強く思ったのだった。
しかし、当時父は仕事が忙しく殆ど家に帰れず、高校生になったばかりの理紀が、母の死という傷を抱えながら勉強と家事と育児に振り回され、それでも生きてゆくためにどれだけ労苦を要したか、例を挙げればキリが無い。
そんな兄の姿を見て、弟はいつもギリギリまで我慢をするようになっていた。兄の重荷になりたくない。これ以上、父に負担を掛けたくない。我儘を言って家族の自由を奪いたくない。しかしそんな思いはいつも裏目に出た。限界を超えると糸が切れた様に彼の身体は言うことを聞かなくなった。
あいつがあんな風になったのは、自分のせいだ。だからあいつの後始末は自分の義務だ。あいつは俺がいないと生きて行けないんだから。
反芻する呪文。理紀は大の字になって天井を見上げた。蹴られた腹が今になってジンと痛む。このままではとても眠れそうになかった。
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