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おせちのうらみ

まだ誰も帰って来ていない静かな台所で、筑前煮を作っていた。胡麻油で軽く炒りつけた鶏肉と根菜類を、少なめの汁とみりんで艶やかに煮詰めていく。

筑前煮を大量に作ると子供の頃の正月を思い出す。
祖父母と同居していたわが家では、クリスマスが終わった頃から母が毎日少しずつおせち料理の準備をしていた。水で戻した昆布でにしんを巻いて煮る昆布巻き、八頭の煮物、ごまめ、煮豆、栗きんとん、筑前煮。母はそれらを傷みにくいものから順に作り始め、それぞれ大きなタッパーに保存していた。
私が味見以外に手伝えることはほとんどなく、栗きんとんのさつまいもを裏漉ししたり、短冊に切って真ん中に切り込みを入れた煮物用のこんにゃくをくるんとひねったり、そんなことくらいだったと思う。
新年には、父の姉妹たちがわが家に集まるのが恒例だった。ひとりっ子だった私は、歳の近い従姉妹たちと遊べるこの時が楽しみで仕方なかった。
父は自分以外すべて女の四人きょうだいだったので、祖父母にとっても正月は、三人の娘たちがそれぞれ夫と孫を連れて帰ってくる嬉しい日だったに違いない。
居間と隣の部屋をぶち抜いて、普段は畳んで仕舞ってある座卓を3つくらい繋げて並べる。そこに大勢の大人と子供たちが集まる。昼頃から始まる宴会は夜まで続いた。

しかし大人になり、結婚して自分が台所を切り盛りするようになってから思い出すあの頃の正月の風景は複雑だ。
賑やかなその宴の中に母はいない。母はエプロン姿でずっと台所にいた。重箱の料理を補充し、洗い物をこなしながら酒がないと言われれば燗をつけ運んでいた。仲が悪いわけではなかったと思うが、母にとっては小姑にあたる叔母たちが、新年の台所を手伝うのを見たことは一度もなかった。
子供だった私は従姉妹たちと遊んだり、お年玉をくれる大人たちにヘラヘラするのに忙しくて、そんな母の様子を気に留めもしなかった。
母はどんな気持ちで一人で台所にいたんだろうか。賑やかな宴会の部屋とガラス戸一枚で仕切られた台所は、母にとってアウェーだったのか、それとも気を遣わずに一人でいられるホームだったのか。
あの時の母のことを大人になってからたびたび思い出す。思い出すといつも少し泣きたくなる。

やがて従姉妹たちも成人して独立し、それぞれが家庭を持つようになり、新年の集まりはなくなった。
私が大学生の時に祖父が、私が社会人になり実家を出て数年後には祖母も亡くなり、母が何日もかけて大量のおせち料理を作ることはなくなった。

両親はリタイヤ後に住む予定で買った田舎の土地に家を建てて暮らしている。おせちはもう作ったりせず、小さくて豪華なやつを買うことにしたらしい。
それがいいと思う。どんどん楽を金で買って欲しい。
嫁いだ先で女が我慢しないと立ち行かない正月なんて、うんこだ。

そんなことを思いながら盛りつけていたら、ちょうどバイトから帰ってきた娘が「わーい筑前煮だ!」と言って鶏肉をつまんで食べた。



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