長篠合戦 山県三郎兵衛討死之図
1868年(明治元年)。長篠(設楽原)の戦い。三枚続絵のうち、右が欠け。
1575年、武田勝頼は15,000人の兵を率いて長篠城を攻めた。城主奥平貞昌はは鳥居強右衛門と鈴木金七郎を岡崎城へ派遣し、徳川家康に救援を要請した。岡崎城で状況を伝えた強右衛門は再び長篠城に戻ろうとしたが、武田軍に捕らえられる。「援軍は来ないと告げれば命を助ける」と脅された強右衛門はそれを拒み、「援軍は近くまで来ている」と城内に叫んだ。この叫びが城兵を奮い立たせた。強右衛門は磔刑に処されたが、高く称賛された。
織田・徳川連合軍38,000人は後詰めのため進軍し、設楽原で武田軍と対峙した。信長は極楽寺山、家康は弾正山に本陣を置き、設楽原を流れる連吾川沿いに馬防柵を築き武田軍を迎え撃つ構えを取った。武田家中では戦うべきかどうかで意見が割れたが、最終的に決戦を決断した。
1575年5月21日(新暦7月9日)、長篠の戦いが始まった。前夜、酒井忠次の部隊が鳶ヶ巣山を奇襲し、武田軍の背後を突いた。追いつけられた武田軍は連吾川を越えて馬防柵への攻撃を試みたが、水田や川に足を取られ、鉄砲隊の集中射撃を受けて多くの死傷者を出した。正午を過ぎる頃には武田軍の敗北が濃厚となり、勝頼は撤退を余儀なくされた。馬場美濃守は勝頼の退却を援護するため殿を務め、寒狭川付近で討ち死にした。この戦いで武田軍は約10,000人、織田・徳川連合軍は約5,000人が命を落としたとされる。
戦後、設楽原に住む村人たちは戦いの間、雁峰山の中腹に避難していたが、戦場に戻ると両軍の戦死者や馬を手厚く葬り、霊を慰める祈りを捧げた。ここは竹広の信玄塚として知られ、毎年8月15日に新城市では「火おんどり」という行事が400年以上続いている(以上、参考)。
長篠の戦いが始まると、武田軍の赤備えの名将・山県昌景は大久保隊の攻撃に対して足軽を送り競り合っていたが、徐々に誘い込まれ、三千の赤備えを一斉に突撃させた。大久保隊は武田軍を引き寄せた後、三百挺の鉄砲を絶え間なく撃ち続けた。これを受けて、山県隊は連吾川の下流を迂回し、柵の無い南側から徳川軍の側面を突こうと試みたが、川の両岸が急峻なため渡河に失敗し、雁峯山寄りの佐久間隊を目標に激しい攻撃を仕掛けた。対して織田軍は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉の各隊が側面から迎撃を試み、山県隊と激しい戦闘を繰り広げた。しかし山県隊は再び攻勢に出て織田軍を追い詰め、さらに体勢を立て直して弾正丘陵中央の徳川本陣へ迫った。この猛攻を迎え撃ったのは、本多忠勝率いる部隊だった。
山県昌景は歴戦の猛将として知られ、その低い身長や力強い体躯、黒地に白桔梗の旗指物を背負って戦場を駆け巡る姿は、敵味方を問わず注目を集めた。しかしその存在感が逆に徳川方鉄砲隊の標的となり、無数の銃弾を受けてしまう。体中を撃ち抜かれた昌景は両手の自由を失いながらも采配を口にくわえて指揮を続けたが、飛び来た弾丸が鞍の前輪を撃ち抜き、ついに落馬した。志村又右衛門が昌景を抱えて後退し、迫り来る敵軍を前に主人の首級を自らの手で切り落とした。志村は昌景の遺体に供養を願う書状と短刀「小烏丸」を添え、首級を抱えて戦場を去った。主君への忠義と武士の誇りを示すものとして語り継がれている(参考)。
山県昌景は臨終の際には「故郷に帰りたい」と伝えたため、首は山梨へ運ばれ、胴体は長篠の地に埋葬された(出典)。