豊臣勲功記 高松城水攻之図 三枚続
慶応3(1867)年。数少ない三枚続絵シリーズの豊臣勲功記から。天正10年(1582年)、織田家と毛利家の間に繰り広げられた備中高松城の戦いにおける水攻めが描かれている(参考)。
手取川の戦いを前に上杉謙信を前に無断撤退したものの、織田信長からは中国攻めの方面軍に抜擢された秀吉は、備前・備中の毛利家の城を次々と攻略し、高松城がその標的となった。1582年3月、備前沼城に入った秀吉は4月に高松城へ進軍、城主・清水宗治を調略するも拒絶され、攻防が始まる。
高松城は三方が沼沢地、一方を堀に囲まれ、城外へ通じる道に橋が架けられていた。そこで羽柴軍はまず周囲の冠山城や宮地山城を落とし、5月8日から一説には黒田官兵衛孝高の進言とされる水攻めの準備に入る。足守川を堰き止めるために大規模な堤防を築き、梅雨も重なりわずか12日間で高松城を水没させた。毛利軍は吉川元春・小早川隆景の毛利両川も出陣してほぼ全力で後詰に向かったが、水没した高松城を見て何もできなかった。戦意を失った高松城は6月3日に降伏を決意し、翌4日に城主・清水宗治は湖面を舟で進み秀吉の本陣近くで自害したとされる。
折しも、京都では6月2日に明智光秀が本能寺の変を起こし、信長が討たれていた。この報を受けた秀吉はただちに毛利氏との和睦を決意し、撤兵して光秀との山崎の戦いに向かった。日本史の中でも最も劇的な瞬間の一つだが、秀吉の中国大返しのあまりの迅速さから、事前に本能寺の変を知っていた、あるいは黒幕説が残る。
毛利元就、輝元、秀就の三代に仕えた家臣・玉木吉保が著し、元和3年(1617年)に成立した「身自鏡」には、本能寺の変の報を6月3日の夜に受けた秀吉が翌4日に毛利氏と和睦を結ぶ様子が記されている(出典)。
秀吉が恵瓊に語った「毛利輝元殿の御謀が深かったため、信長がお果てになってしまった」という言葉には、光秀の謀略への毛利の関与を暗示する。秀吉はすでに光秀がクーデターを起こした経緯を独自に把握しており、恵瓊は心底肝を冷やしたのかもしれない。毛利家がすぐに講和に応じた背景に、恵瓊や智将・小早川隆景が秀吉との対決を避けた深謀遠慮があったのだろう。
非常に摺りや状態が良い一枚、持ち主に大切にされてきたことが分かる。