徳川治績年間紀事 初代安国院殿家康公
明治八年(1875年)。『徳川治績年間紀事』は、初代家康公から二代、三代、四代、五代、七代、十二代、十三代、十四代、十五代慶喜公まで、芳年は十枚を描いた三枚続絵の傑作シリーズ。その初代家康が本作。
本作の場面は、若き日の家康が武田信玄に立ち向かった、一言坂の戦い。
1572年、第二次信長包囲網に応じて西上作戦を開始した武田信玄は、織田徳川の背後を打つべく軍を三つに分けて三河と美濃に進軍した。信玄自らは約三万の本隊を率いて遠江へ侵攻し、天野景貫が寝返って犬居城を明け渡し、信玄の進軍を支援した。馬場信春には五千の兵を託し、二俣城に向けて南下させた。
家康は武田軍の迅速な進軍に対して、本多忠勝と内藤信成を偵察に送り迎え撃った。しかし、忠勝は武田軍の先発隊と一言坂で遭遇し、劣勢を悟った家康は撤退を決断し、本多忠勝と内藤信成が殿を務めて退路を確保した。忠勝は小杉左近なる武将に退路を阻まれたが、左近が忠勝の退路を見逃したという逸話が伝わる。
この後に、二俣城を陥落させた武田軍に対して家康は浜松城での籠城戦を選ぶも、浜松城を素通りした武田軍に釣り出されて三方ヶ原の戦いで敗北を喫する。但し、現在も三方原の場所がわからないように、神君家康の若き日の失態は江戸時代に有耶無耶にされたようだ。
一言坂の戦い後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という忠勝を称えた狂歌が生まれた。この狂歌は見逃した小杉左近の作とも伝えられていたが、実際には信其という人物の作であるらしい(以上、参考:Wikipedia)。
本作が描かれたのは、江戸幕府が終わり自由に徳川家を描けるようになった時代。徳川15代将軍を描いた芳年の胸中には、新たな時代を迎えて次第に終わりゆく江戸の情緒に思いが巡ったのだろうか。