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川中嶋大合戦 謙信の車懸りを見つけ勘助備を立直す図 歌川国芳

歌川国芳・作。
弘化1年(1844年)頃の作品。國芳の得意とした川中島の合戦絵の中でも、屈指の名作。

武田と上杉が信州を奪い合った川中島の戦いのうち、最も大規模に衝突した永禄4年(1561)の第四次川中島合戦。9月10日早朝、上杉謙信は武田軍の啄木鳥戦法を見破り、八幡原一帯を覆う霧の中、車懸かりの陣で奇襲をかけた。武田の軍師・山本勘助は、急いで陣形の立て直しを図るが、この後に壮絶な討ち死を遂げる(参考)。霧が晴れた八幡原で信玄と謙信の両雄が一騎打ちを演じ、激戦は正午過ぎまで続いた(参考)。

著名な車懸かりの陣は、単なる陣形ではなく敵の旗本との決戦に持ち込むための作戦行動だった。徳川時代の軍書「侍用集」などが円形陣として図示化したことで後世に誤解が生じたが、実際には上杉側では「一手切(一手伐、一手限)」と呼ばれた戦術である(出典)。

画面中央で信玄と向き合う初鹿源五郎(戦死する)は、百足衆の旗を掲げている。百足衆は、当初、信玄の側近集団・使番として組織された精鋭部隊で使番十二人衆とも呼ばれた。その名は百足が決して後退しないことに由来し、「戦場でも後ろに退かない」「負けない」という武将たちの理想を表している(Wiki)。

初鹿野忠次

国芳は山本勘助を好み、川中島合戦で多くの錦絵を描いた。そのうち本作は、信玄を中心とした陣形配置、川を背景とした構成、川原や流水の様式美など画面の端正さを保ちながら、早朝の奇襲を前に緊迫感と迎撃の準備が見事に表現された、武者絵の国芳の真骨頂を示す作品といえる(出典)。

本作には武田軍の名だたる武将が並ぶ。甲州信州の豪族の与力集団だった武田家は、大陸の北方騎馬民族のように常に外部を侵略し膨張し続け、さらに裏切りを恐れて負けないことが武田の当主に求められた。信玄の戦い方や勝頼の行動もそのような背景があったのだろう。

馬の表情が面白い

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