月百姿 雨中月 児嶋髙徳
太平記より、白桜十字詩。
天、勾踐を空しうすること莫れ。時に范蠡無きにしも非ず。
鎌倉幕府を倒そうと企てた南朝初代の後醍醐天皇は、計画が発覚し隠岐島に流された。元弘2年(1332年)3月に京を出発し、17日に津山の院ノ庄に到着。この際に児島高徳は天皇を救出しようと試みたが、幕府側の厳重な警戒に阻まれて失敗を余儀なくされた。高徳は、やむなく天皇の宿舎にあった桜の木の幹に漢詩を刻み残す。詩の意味は幕府側の警護の武士には理解されなかったが、天皇はこれを見て深く感動した、と太平記にある。その後、足利尊氏や新田義貞の働きにより東国の鎌倉幕府は倒され、天皇による親政を目指した建武の新政が成し遂げられた。
表題の漢詩は、臥薪嘗胆で有名な呉越戦争。天は、越王勾践が夫椒で敗れ、会稽で降伏しても見捨てることはなかった。忠臣范蠡(児島高徳)が今、ここにいるではないか。天は勾践を見捨てなかったように忠臣がいるというという意味(参考)。
米子の伝説によれば、高徳は救出の機会を狙いながら院ノ庄から米子まで赴き、最終的に米子で亡くなったという。米子市の凉善寺には彼の墓があり、丁重に祀られている。児島高徳は備前岡山の邑久郡に生まれたと伝えられるが、太平記を除いて明確な記載がなく、実在の人物かどうかは疑問視されている。五流山伏であったという説や、太平記の作者である小島法師こそが高徳であるという説もあるが、いずれも決着がついていない(出典)。
漫画『大乱関ヶ原』でも、七将襲撃事件により佐和山に蟄居する石田三成が出発する際、毛利輝元が天莫空勾践と桜の木に残す。これは捲土重来を期し、関ヶ原における西軍の形成を象徴した場面だった。しかし、豊臣政権の奉行三成が五大老毛利の上位に立つような描写に少し違和感も覚えた。