見出し画像

永禄四年九月川中嶋大合戦 山本勘介入道晴行小高き丘にて馬蹄をやすむる図 歌川国芳

安政元年(1854年)。一勇斎国芳、版元は山本屋平吉(出典)。国芳独特の遠近法を使った構図が冴えわたる、川中島の戦いシリーズの合戦絵の傑作。

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて、山本勘助は旗本侍大将として出陣した。勘助自ら進言した「啄木鳥戦術」により、上杉軍の背後を取ろうとしたが、逆に見破られたことで武田軍は窮地に追い込まれた。

この危機を見た勘助は、かねてよりの主君信玄への恩に報いるために上杉軍の中に切り込み奮戦するも、泥木明神(泥真木明神)付近で討死したと伝えられている

その後、勘助を讃え、北小森の村人たちは泥木明神に勘助を合祀し、社を「勘助宮」と改称したと伝わる(出典)。

その後、勘助の遺骸は陣ヶ瀬東高畑に葬られ、その地には五輪塔が建てられた。この場所は「勘助塚」と呼ばれ、勘助を偲ぶ人々によって知られていたが、千曲川の増水や自然災害によって墓が荒廃することを憂いた松代藩士・鎌原重孝が、元文年間(1736~1741年)に墓の再建を開始するものの、途中で他界する。その後、息子の鎌原重栄や同藩士の原正盛が重孝の遺志を継ぎ、元文4年(1739年)に私財を投じて遺骨を柴阿弥陀堂の境内に移し、石碑を建立した。この石碑には「山本道鬼居士墓」と刻まれている。文化6年(1809年)、勘助の没後250年を記念し、鎌原重賢によって墓の再整備が行われ、長く保存されるように中台が設けられ、石積みの土台が高くされたことで現在の姿となった。現在、信州柴阿弥陀堂は吉池家の宅地内にあり、代々墓が守られている。

また、山本勘助の墓に関連して、松代町東寺尾には「勘助塚・勘助塚下」という地名が残っている。この地はかつて勘助の最初の墓があった場所とされ、『東寺尾村誌』や『柴村誌』にもその記述が見られる。『柴村誌』によれば、千曲川沿岸にあった墓は水難を恐れ、松代藩士原正盛と鎌原重栄によって元文4年に現在の地へ改葬されたという(以上、出典)。



いいなと思ったら応援しよう!