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信州川中島 武田の正兵西条山を引き返し雨宮の渡りを越え越後方甘粕近江守と戦ふ図 歌川国芳

歌川国芳・作。長野市博物館も所蔵。
西洋画も学んだ國芳の奥行ある構図が素晴らしい。合戦絵は国芳で一つの完成を見たのかもしれない、このジャンルは芳年よりも優れていると思う。

甘粕景持は上杉謙信の家臣。その死後の天正6年(1578)の御館の乱では景勝につき、上杉家に引き続き仕えた。天正10年(1582)には三条城の城主となり、新発田重家の反乱鎮圧に前衛として従軍した。慶長3年(1598)、上杉景勝の会津転封に従い、慶長9年(1604)に没した。甘粕氏の出自については諸説があり、清和源氏を祖とする説や、春日山林泉寺の甘粕野次広忠を祖とする越後豪族説がある(参考)。その子孫は米沢藩士として続き、明治維新後に甘粕事件の甘粕正彦も出した。

永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いにおいて、武田の軍師・山本勘助の提案した啄木鳥戦法は妻女山に陣取る上杉軍を挟撃する計略だった。武田軍の別働隊1万2千が夜襲をかけたがしかし上杉軍が既に作戦に気づいて山を降りており、武田軍も妻女山を下り八幡原での主力戦闘に合流すべく進軍した。その行く手を阻んだのが上杉軍の後備部隊を率いる甘粕近江守景持だった。甘粕隊は千名の少数ながらも戌ヶ瀬・十二ヶ瀬に布陣して武田別働隊を迎え撃った。夜明け前から始まった戦闘は激戦となり、甘粕景持は自ら半月形の大長刀を振るい奮戦した。甘粕隊は地形を活かしつつ果敢に攻撃を仕掛け、圧倒的な兵力を擁する武田別働隊の進軍を一時的な足止めに成功した。本作はその場面を描いている。

その後に武田軍の別働隊が救援に到着し、逆転して上杉軍が挟撃されるに至った終盤、甘粕景持は撤退に際して直江山城守とともに殿を務め、犀川を渡った後に市村で陣を敷き追撃に備えた。甘粕景持の活躍は甲陽軍鑑でも評価され、近隣他国に誉めざる者なしと称された。また、甘粕隊の統率力は敵方に謙信本人が指揮しているのではないかと思わせるほどだったとされる。

旗指物
他の摺りでは馬の胸の部分のパッチは色が抜けているが、
これは持ち主か誰かが茶色を入れて修繕したらしい
奥行きのある合戦絵のデザインは、西洋画の遠近法が影響しているようだ
黒田秀忠のことか

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