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帰ろう/藤井風

素敵な曲に出会うと誰しもが「歌詞 意味」や「歌詞 解釈」など頭で理解をしたくなるが、この曲にはそういったものが不要だと感じた。

もちろんその意味でいえば、こうした感想のブログも不要だとは思うのだが、わたしはわたしでこの曲を聴いた時の気持ちを整理したいと思い、書き記している。なのでもし上記のように検索してこのブログに辿り着いた人がいたとしても、ここに書いてあることが曲の解釈のすべてとは思わずに素通りしてほしい。

帰ろう/歌詞

まずは歌詞を読もう。

あなたは夕陽に溶けて
わたしは夜明けに消えて
もう二度と 交わらないのなら
それが運命だね

あなたは灯りともして
わたしは光求めて
怖くはない 失うものなどない
最初から何も持っていない

それじゃ それじゃ またね少年の瞳は汚れ
五時の鐘は鳴り響けどもう聞こえない
それじゃ それじゃ まるで全部終わったみたいだね
大間違い 先は長い 忘れないから

ああ すべて忘れて帰ろう
ああ すべて流して帰ろう
あの傷は疼けど この乾き癒えねど
もうどうでもいいの 吹き飛ばそう

さわやかな風と帰ろう
やさしく降る雨と帰ろう
憎みあいの果てに何が生まれるの
わたし、わたしが先に 忘れよう

あなたは弱音を吐いて
わたしは未練こぼして
最後くらい 神様でいさせて
だって これじゃ人間だ

わたしのいない世界を
上から眺めていても
何一つ 変わらず回るから
少し背中が軽くなった

それじゃ それじゃ またね
国道沿い前で別れ
続く町の喧騒 後目に一人行く
ください ください ばっかで
何も あげられなかったね
生きてきた 意味なんか 分からないまま

ああ 全て与えて帰ろう
ああ 何も持たずに帰ろう
与えられるものこそ 与えられたもの
ありがとう、って胸をはろう
待ってるからさ、もう帰ろう
幸せ絶えぬ場所、帰ろう
去り際の時に 何が持っていけるの
一つ一つ 荷物 手放そう
憎み合いの果てに何が生まれるの
わたし、わたしが先に 忘れよう

あぁ今日からどう生きてこう

読みましたか。この歌詞。わたしは音楽を聴いて、そのあと歌詞をみてすぐに泣きました。聖書の言葉か? 救済か?

歌詞には「最後くらい神様でいさせて」というフレーズがありますが、その前後の部分も誰にでも理解できるような言葉で神を表現していて、とにかく美しい。ありきたりな言葉を並べて作られた言葉というのがどれほど陳腐なものかを考えさせられるくらい、言葉選びが優れている。

どんなに意味のある言葉を並べても最終的には簡単な言葉こそが人の胸に響く、のお手本のようだ。まったく過不足がない。これが完全と思わせられる。

死ぬためにどう生きるか?

Youtubeで限定公開されていた動画にて(現在は非公開)、藤井風自身が「この曲を発表するまでは死ねない」と言っていました。この曲は「死ぬためにどう生きるか?」人生を帰り道に重ね合わせて自問自答した1曲なのだそう。

彼の死生観を表した1曲と言ってもよいような気がしますが、この死生観がとにかく見事です。この時代にこの曲は、実際すこしズレているように感じます。誰もがたった一人、自分の命を生かしていくことに精一杯な時代において、誰もが成功を追い求めていく時代において、すべて与えて帰ろうと言っている。

たくさんのものをもらっても、帰る時には何も持ってはいけない。憎しみあう心も持ってはいけないし、そもそも憎しみからは何も生まれはしない。それなら先にわたしが忘れましょう。綺麗ごとに聞こえるかもしれないけれど、そうした綺麗ごとも言えないくらい逼迫した時代だからこそこの言葉がまっすぐ胸に届きます。

またわたしは『帰ろう』の歌詞をみた時いちばんにグリム童話『星の銀貨』を思い出しました。あらすじはこうです。

むかし昔、あるところに1人の女の子がいました。女の子にはお父さんもお母さんもいませんでした。住む場所も、寝るベッドもなく、あるのは着ている胴着と、親切な人にもらったパンだけ。神様を頼りに野原にでた女の子は出会った貧しい人たちに、パンをあげ、胴着をあげ、下着をあげ、とうとう裸になってしまいます。そうして夜空の下、何も持たずに立っている女の子のもとに天から星が落ちてきます。それは銀貨で、女の子はそれらを広い集めそれから一生豊かに暮らしました。

これは単なる憶測ですが。混沌の時代ともいえる2020年にデビューし、移り変わりの早い音楽業界のなかで、彼はたくさんの優しさに出会い、たくさんの考える機会を得た結果、自分が誰かに何を残していけるのかを考えたのかもしれません。しかし歌詞の最後に「あぁ今日からどう生きてこう」とあるように、彼自身にもきっと明確な答えは見つからなかった。無理にまとめようとせず、ぽつりと自然に呟いてしまったような言葉がまた印象的です。

この曲は明るい

最後に。

この曲は決して湿っぽい作品ではないと思います。もちろん死生観が表現されているし、「忘れよう」「帰ろう」「去り際」「最後くらい」など死を迎える直前の人の心境のような単語も散見されます。遺書のような気もしてくる。

けれどこの曲は絶対的に“生きる人のための曲”なんです。むしろ“それでも生きていきたい”と、絶望の縁に手をかけながらもそう願ってしまう人にむけた曲です。温かいし、明るい。そうした面があるからこそ、この曲を聴いてわたしは涙してしまうのだろうと思います。

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