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しろがねの葉 千早茜 感想

2022年下半期の直木賞を、小川哲氏の『地図と拳』とダブル受賞した作品。選評を文末に引用するが、共感したのは、北方謙三氏の「濃密な小説世界にはただ心を震わせるしかない」という感想だ。その通り、物語の内容に関しては何も言葉が出てこない。なので、読書体験という意味の感想になる。

本書は時代小説だと言われているようだが、そのようには感じなかった。小川哲氏は、誰も知らない見たことのない世界を描くという点で、SFと時代小説は書き手の自分としては変わりがない、と語っていたが、その意味がわかった気がする。

『しろがねの葉』は、文学表現のみによって形作られた仮想空間であり、読者としてそこに浸ることで、まるで主人公のすぐ近くで仮想現実を体験しているような錯覚を起こす。この「仮想」というのがポイントで、ここに作者ならではのものの見方、作家性が現れるし、また読者それぞれの想像の自由も受け入れられる。これが文学の持つ抽象性であり、映画やVR技術とは本質的に異なる。

銀山の採掘坑を間歩(まぶ)といい、本書では具象と抽象、両方の意味で重要なモチーフとなっている。選考委員諸氏が指摘するように、この間歩はウメと一体となって主人公であるのだが、メタ的に一読者の立場に立ってみれば、間歩は文学における「書物」の隠喩であると思う。

誰かによって書かれた書物は、そこにひっそりと佇み、読者によって開かれることを待っている。『しろがねの葉』という間歩を紐解き、そこに入り、闇の中で目を凝らすようにしてその物語を凝視し、読み終え、本を閉じた。そういう読書体験であった。

山奥の一場が舞台というのは長編小説としては離れ技で、それもていねいな風景描写と卓抜した人物描写があったればこそ可能であった。すなわち、作者はきわめて難しい小説を書いたのである。(浅田次郎)

これほど濃密な小説世界に入りこむと、ただ導かれるまま、心をふるわせるしかないのだ。小説の結末をどうつけるかという課題は残したが、全体としては迫力充分で、受賞に値すると私は思った。(北方謙三)

夜目が利くという異能を頼りに、非力な女の身で石見銀山の銀掘になろうとした少女ウメの物語なのですが、彼女が入り生き抜いてゆく「山の闇と間歩」がまず主人公であると言っていいでしょう。女性であるウメは、男たちと「山という女」の間で苦難にすりつぶされかけながらも、自身の命もまた胎闇の循環のなかにあることを悟っていく。そのプロセスが、千早さん本領発揮の幻惑的な文章で綴られています。(宮部みゆき)

もともと女性を描くことに長けている作者だが、銀山の歴史的伝承や銀掘りの作業の詳細など、多くの資料を読み込み、十分に消化した上でこなれた物語に仕上げているのは、まさしく小説の才であると同時に、テーマとの幸運な出会いというものだろう。銀を掘り出す坑道の圧倒的な暗さ、冷たさに作者が感応して初めて本ものの文体が生まれる。(高村薫)

戦国時代の石見とそこに生きる人々を丹念に描くことで、千早さんは日本という国と日本人を見つめようとしている。千早さんは少女から大人の女性へ、と女の一生を物語にしようとしなかったのも潔かった。日本文学には、土地土地の土着性を発見することで、日本という国の成り立ち方、そして日本人を描こうとする流れがある。そこに挑んだ作者の姿勢を認めたい。(伊集院静)

冒頭と末尾の神話的語りをより響かせるために、主人公のウメがもう少しファンタジックに(本作が持つ小説本来の呪術性の方向へ)飛翔というか飛躍してもいい気がした。だが、間歩の深い闇、銀山そのものがウメなのであり、その世界は決して狭くはないのだという選考委員のみなさまのご意見をうかがい、たしかにそのとおりだと得心した。(三浦しをん)

最初から強く推した。文章の美しさにまず魅了された。銀山には早死にする男たちばかりで女たちは三度夫を持つ、という設定も面白い。そうした中で彼女は、初めて山に入る女になる。この描写が素晴らしい。(林真理子)

それ自体がいのちを宿しているような文章に引きこまれた。闇の描写も含め、読む側の五感を刺激する筆力は候補作のなかでも抜きん出ている。作者は、男たちを間歩の闇に閉じこめ離れさせないのと同様、ウメを「女」に閉じこめ、そこから逃がさない。だから読んでいて苦しいほどの窮屈さを感じるが、作者はむしろその窮屈を見据え書き続けることに挑んだのかもしれない。(角田光代)

この作品の優れた点は、登場人物たちが物語の中で勝手に生きていることにある。つまり、物語のためにわざわざ作り出された人物がいない。それが物語世界をリアルに息づかせている。さらに、作者は銀山という場所の官能性をもうまく描いている。銀山が女の隠喩と考えれば、悲しい物語である。(桐野夏生)

第168回直木賞選評より


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